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徳大寺実定(読み)とくだいじさねさだ

改訂新版 世界大百科事典 「徳大寺実定」の意味・わかりやすい解説

徳大寺実定 (とくだいじさねさだ)
生没年:1138-91(保延4-建久2)

平安後期~鎌倉初期の公卿。1177年(治承1)大納言兼左大将,83年(寿永2)内大臣。86年(文治2)源義経謀反事件後の源頼朝の朝廷介入により右大臣,89年左大臣となって朝幕間を取り次いだ。91年(建久2)出家,法名は如円。後徳大寺左大臣と呼ばれる。その日記を《槐林記》という。その死に際しては〈幕下(頼朝)殊に歎息し給う。関東由緒あり,日来重んぜらるる所也〉と《吾妻鏡》は記しており,頼朝の信頼ぶりがうかがえる。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

関連語 清田

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「徳大寺実定」の解説

徳大寺実定 とくだいじ-さねさだ

1139-1192* 平安後期-鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
保延(ほうえん)5年生まれ。徳大寺公能(きんよし)の長男。寿永2年源義仲(よしなか)により内大臣の地位を藤原師家(もろいえ)にかえられるが,翌年義仲の死で復職。源頼朝の奏請で議奏公卿のひとりとなり,右大臣,のち左大臣にすすむ。正二位。和歌もよくし,「千載和歌集」以下に作品がのこる。後徳大寺と称された。建久2年閏(うるう)12月16日死去。53歳。
格言など】ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる(「小倉百人一首」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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