待賢門院(読み)タイケンモンイン

デジタル大辞泉 「待賢門院」の意味・読み・例文・類語

たいけん‐もんいん〔‐モンヰン〕【待賢門院】

[1101~1145]鳥羽天皇皇后藤原璋子ふじわらのしょうし院号。父は藤原公実。元永元年(1118)皇后となり、崇徳後白河両天皇を産んだ。

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精選版 日本国語大辞典 「待賢門院」の意味・読み・例文・類語

たいけん‐もんいん ‥モンヰン【待賢門院】

鳥羽天皇の皇后璋子(しょうし)女院号。璋子は権大納言藤原公実の娘で、母は藤原隆方の娘光子。白河法皇の猶子となり、永久五年(一一一七)入内。元永元年(一一一八)皇后となり、天治元年(一一二四)院号宣下。崇徳・後白河天皇の母。陵は京都の花園西陵。康和三~久安元年(一一〇一‐四五

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朝日日本歴史人物事典 「待賢門院」の解説

待賢門院

没年:久安1.8.22(1145.9.10)
生年:康和3(1101)
平安後期,鳥羽天皇の皇后。諱璋子。崇徳,後白河天皇の生母。権大納言藤原公実の娘。母は藤原隆方の娘で,堀河,鳥羽天皇の乳母の従二位光子。初め白河法皇の寵姫祇園女御の養女となり,のちに法皇の下で養育される。法皇の溺愛ぶりは『今鏡』に詳しく,幼い璋子は常に法皇の懐で添い寝したという。やがて法皇は関白藤原忠実の嫡男忠通との婚姻を望むが,忠実の反対に遭い,永久5(1117)年に孫の鳥羽天皇に璋子を入内させる。忠実の日記『殿暦』によれば,当時璋子には様々な乱淫の噂があり,「奇怪不可思議の女御」といわれた。翌年には中宮となり,元永2(1119)年に顕仁(崇徳天皇)を生む。この皇子は実は法皇の子で,鳥羽天皇もその事実を知っており,のちの保元の乱(1156)の一因となる。保安4(1123)年には顕仁親王が即位し,翌天治1(1124)年に院号宣下を得て待賢門院と称す。大治4(1129)年7月,最大の庇護者であった法皇が死去すると,忠実の娘の泰子の入内や,藤原得子(美福門院)の出現によって鳥羽上皇との関係は悪化,永治1(1141)年に得子の生んだ体仁親王(近衛天皇)が鳥羽上皇の策動によって即位すると,その権勢を失う。晩年は白河法皇の死後に始めた仁和寺法金剛院の造立に打ち込み,末子の本仁親王を仁和寺の覚法法親王のもとに入室させ,自身も康治1(1142)年に法金剛院で出家した。

(土谷恵)

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改訂新版 世界大百科事典 「待賢門院」の意味・わかりやすい解説

待賢門院 (たいけんもんいん)
生没年:1101-45(康和3-久安1)

藤原璋子。鳥羽天皇の皇后,崇徳天皇,後白河天皇の母。権大納言藤原公実の女。1117年(永久5)12月入内して女御となり,翌年(元永1)1月立后して中宮職を付された。24年(天治1)11月待賢門院と女院号を宣下され,30年(大治5)10月落飾,法名は真如法と号し,45年8月に没した。45歳。女院は幼時より白河上皇に愛育され,上皇の猶子として鳥羽天皇の後宮に入ったが,関白藤原忠実の嫡子忠通との婚約を破棄しての入内であったらしく,忠実はこれを不快とし,のちその女泰子(高陽院(かやいん))の入内問題に尾を引いた。その後も白河上皇は,京都近郊の社寺はもとより,このころ盛んになりはじめた紀州熊野詣に女院を同伴するなど,女院に対する寵愛は入内以前と変わらず,それだけに女院の勢威は時人の目をみはらせるものがあったが,治天の君であった上皇の没後,その勢威は急速に衰えた。
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百科事典マイペディア 「待賢門院」の意味・わかりやすい解説

待賢門院【たいけんもんいん】

藤原璋子。鳥羽天皇の皇后。権大納言藤原公実の女で,母は光子。1117年入内して女御となり,翌年立后(中宮)。崇徳天皇後白河天皇らを生んだ。1124年女院号宣下。1130年落飾,法名は真如法。幼少のころから白河上皇の寵愛を受け,上皇存命中は女院の勢威は衰えなかった。
→関連項目秋月荘質侶牧

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「待賢門院」の解説

待賢門院 たいけんもんいん

1101-1145 平安時代後期,鳥羽天皇の中宮(ちゅうぐう)。
康和3年生まれ。藤原公実(きんざね)の娘。幼時に白河上皇の猶子となり,永久6年中宮となった。崇徳(すとく),後白河両天皇以下7人の皇子,皇女を生んだ。天治(てんじ)元年院号をおくられる。仏教に帰依(きえ)し,円勝寺,仁和寺(にんなじ)法金剛院を建立,永治(えいじ)2年尼となった。久安元年8月22日死去。45歳。名は璋子(しょうし)。法名は真如法。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「待賢門院」の意味・わかりやすい解説

待賢門院
たいけんもんいん

[生]康和3(1101).京都
[没]久安1(1145).8.22. 京都
鳥羽天皇の皇后。名,璋子 (あきこ) 。父は権大納言藤原公実,母は藤原隆方の娘光子。白河法皇の猶子 (ゆうし) となり,入内して鳥羽天皇の女御となった。元永1 (1118) 年皇后の宣下があって中宮を称した。崇徳,後白河の両天皇の母。天治1 (24) 年院号宣下。陵墓は京都市右京区花園扇野町の花園西陵。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「待賢門院」の意味・わかりやすい解説

待賢門院
たいけんもんいん

藤原璋子

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世界大百科事典(旧版)内の待賢門院の言及

【女院】より

…991年(正暦2)9月一条天皇の生母皇太后藤原詮子が病により出家したため,出家後の詮子の処遇が問題になり,皇太后を止め,改めて東三条院の院号を宣下し,太上天皇に准ずる待遇を与えたのが初例である。以後,1850年(嘉永3)2月,孝明天皇の生母藤原雅子が新待賢門院の院号を宣下されるまで,詮子も含めて女院号を授けられた者は107名(このうち2度院号宣下を被った者があり,院号例は108)である。 院号宣下は,初例の東三条院の場合は出家による后位の停廃に基づき,第2例の太皇太后藤原彰子も1026年(万寿3)1月出家により上東門院の号を授けられたが,第3例の禎子内親王が陽明門院の女院号宣下を被ったのは1069年(延久1)2月で,すでに出家から二十数年を経ており,以後,出家と女院号宣下は必ずしも関係はなくなった。…

※「待賢門院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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