滝沢村(読み)たきざわむら

日本歴史地名大系 「滝沢村」の解説

滝沢村
たきざわむら

[現在地名]滝沢村滝沢

岩手山麓東部にあたり、鹿角かづの街道が村内を縦貫する。東は北上川を隔てて門前寺もんぜんじ村・川又かわまた(現玉山村)、南は鵜飼うかい村、北は平笠ひらかさ(現西根町)。村名は村の西、たきさわ山から流れる渓流にかかる滝に由来するという(滝沢村誌)。安永九年(一七八〇)の厨川通絵図(盛岡市中央公民館蔵)によれば、下栗谷川しもくりやがわ(現盛岡市)を経て滝沢村に至る道の東に大喰おおばみ堤・大出湧口おおいでわつくつ柳沢湧口やなぎさわわつくつがあり、道の西には八幡宮・熊野堂が描かれる。また大石渡おおせわたりから一王子いちのおうじ社を通り鞍掛くらかけ山の東の柳沢に本宮・若宮の鳥居と社がみえ、道は岩鷲がんじゆ(岩手山)へと続く。慶長四年(一五九九)八月一一日の元信弥六宛南部利直知行宛行状(宝翰類聚)に「遣知行之事 右岩手之郡滝沢村ニおゐて八拾五石」とある。近世初頭から山林資源に恵まれ狩場でもあった。

滝沢村
たきさわむら

[現在地名]十和田市滝沢

奥入瀬おいらせ川に合する滝沢川(後藤川)の上流付近に位置する。北は大不動おおふどう村、東北は米田まいた村、南は五戸ごのへ川を経て三戸さんのへ(現三戸郡三戸町)に接する。

正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に滝沢村、一〇三石余とあり、同年の郷村帳によれば一〇三・六二六石のうち六一・八八四石が畑とある。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」では、蔵分一〇〇石余、給分一一三石余で、馬一九三疋を飼養。家数一一五のうち、支村は指久保さしくぼ一四、漆畑うるしはた八、赤休(赤伏か)二四、米田(内)沼六、小谷地こやち一、川原かわら五、横倉よこくら一四、高屋たかや八、中ノ渡なかのわたり九、松木屋敷(松屋敷)七とある。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数六七で、本村は八、支村に赤伏あかぶし一二、漆畑二、差久保さしくぼ一〇、米内沼よないぬま六、川原四、横倉一〇、高屋四、中ノ渡六、松ノ屋敷まつのやしき五があった。

滝沢村
たきざわむら

[現在地名]会津若松市一箕町いつきまち八幡やはた

会津盆地の東縁、白河街道滝沢峠へ登る手前にあり、峠を越した東は金堀かねほり村。西の牛墓うしがはか村とは街続きで、南は慶山けいざん村。本村の北三町四〇間余に端村中島なかじま、中島の北一町に端村北滝沢があり、北滝沢南東一里余には北滝沢の小名大杉新田おおすぎしんでんがある。本村の北東二八町余の山中に端村石盛いしがもり(石ヶ盛)がある。村名は東の山中に白糸しらいと滝があり、その下流にあるためという(新編会津風土記)。かつては三町ほど西に散居していたが、天正一九年(一五九一)新しい白河街道が造成され、文禄四年(一五九五)現在の地に移り(滝沢組村々由来堤山名帳)、街道両側に短冊形に宅地がとられたという。

滝沢村
たきざわむら

面積:一八一・〇二平方キロ

盛岡市の北西に位置し、東は玉山たまやま村、西は雫石しずくいし町・松尾まつお村、北は西根にしね町に接する。北西に岩手山がそびえ、鞍掛くらかけ(八九七・一メートル)鬼古里おにこり山・燧堀かどほり山・大沢おおさわ坂・篠木しのぎ坂・烏泊からすとまり山など標高四〇〇―三〇〇メートルの丘陵が中央部から南部へ連なる。東端を北上川が南流、南端を雫石川が東流する。東部を諸葛もろくず川・木賊とくさ川・巣子すご川が南流し、越前えちぜん堰が村の南部を潤す。

滝沢村
たきさわむら

[現在地名]青森市滝沢

東岳あずまだけ山地の南麓にあり、三本木さんぼんぎ村の東、野内のない川中流北岸の山村。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡の新田に高六五・六一石とある。貞享四年(一六八七)の検地帳には、田方九反二畝一一歩、畑方四〇町八反二畝二七歩、田畑屋敷合せて四一町七反五畝八歩、村高一一九・八一七石とある。ほとんどが畑地で、しかも四〇町余のうち、下畑一二町余・下々畑一七町余で生産力は低い。ほかに「分米難付」畑一四町九反三畝四歩があり、「場広故不及検地」草山二ヵ所、村中の漆木二千九五七本が記される。屋敷地のうち六歩は郷蔵屋敷であり、一六間に四間の屋敷地は脇道番所である。

滝沢村
たきざわむら

[現在地名]一関市滝沢・東台ひがしだい

牧沢まきさわ村の東にあり、滝沢川が西から北へ向きを変えて貫流する。村名は北の狐禅寺こぜんじ村との境にある滝沢川のさかい(高さ約三メートル・幅約七メートル)にちなむともいわれる。慶長六年(一六〇一)の留守政景知行目録写(留守文書)に「たき沢」とあり、八八貫三九二文が留守氏知行。正保郷帳では田八八貫七四五文・畑八貫八七九文、ほかに新田八貫四三文がある。仙台藩領時の慶安五年(一六五二)には当村三貫二〇〇文が宮沢源左衛門に宛行われている(「伊達政宗領知黒印状」伊達家文書)

滝沢村
たきさわむら

[現在地名]浜松市滝沢町

鷲沢わしざわ村の北東の山間に位置し、東は麁玉あらたま大平おいだいら(現浜北市)、西は引佐郡川名かわな(現引佐町)。引佐郡に属し、元禄郷帳にはタツサと振仮名がある。正保郷帳では高九六石余、内訳は田六〇石余・畑二六石余・山高八石・大日(安楽寺大日堂)領二石。領主の変遷は鷲沢村と同じ。「遠江国風土記伝」によれば谷淵やぶち大和田おおわだ馬場ばば狸穴たぬきあなの四つの里がある。川名村としばしば境界や用水をめぐる争論があった。

滝沢村
たきざわむら

[現在地名]赤城村滝沢

東は勝保沢かつぼざわ村、北は見立みたち村、西・南は三原田みはらだ村に囲まれた小村。元禄一三年(一七〇〇)三原田村絵図写(上三原田区有文書)に三原田村と「以前ハ一村ニ御座候得共、拾六年以前貞享二年丑ノ年、二ケ村ニ分リ申候」と記され、三原田村から分村したことがわかる。字御所谷戸ごしよがいとの諸田家、字日向堀ひなたぼりの桜井家、字江戸久保えどくぼの永井家、字天神てんじんの永井家、字間の沖まのおきの中島家、字田端たばたの岩田家を「滝沢の六屋敷」とよび、村の草分と称している。

滝沢村
たきざわむら

[現在地名]池田町大字会染あいそめ 滝沢

現池田町中部で中山なかやま山地の大穴おあな山の西麓に位置し、北隣の花見けみ集落とともに段丘上から段丘下にかけて広大な水田地帯をもっている。

滝沢の名は、永禄九年(一五六六)諏訪社下社造宮改帳(諏訪大社上社文書)に、「仁科之内渋田見・滝沢両郷より出候造宮銭論之事」とあるのを初見とし、諏訪社下社の造宮所役のあったことが知れる。このことは、下って天正六年(一五七八)二月の下諏訪春秋両宮御造宮帳にも「秋宮瑞籬弐間外籬九間、春宮外籬五間、右造宮仁科之内」として仁科にしなの五ヵ郷をあげている中に「滝沢」がみえることでもわかる。

滝沢村
たきざわむら

[現在地名]鶴岡市滝沢

青竜寺村の南、金峯きんぼう山の南東山麓にある。地名は、当地から金峯山なかの宮に至る参道の途中に滝沢があり、それを源とする滝沢川が地内を貫流することによる。村の成立は中世にさかのぼるとされ、鎮守白山神社は寛弘八年(一〇一一)加賀白山権現の分霊を勧請開創したとの説がある(白山明神社記)。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に村名がみえ、高三三九石余。

滝沢村
たきさわむら

[現在地名]藤枝市滝沢

宮原みやばら村の北に位置し、西は相賀おおか(現島田市)、東から北は瀬戸谷せとのや村。滝沢川が東流し、村の南東部で南流してきたたき川を合流する。志太しだ郡に属する。永禄四年(一五六一)七月二〇日の今川氏真朱印状(岡村文書)によると、岡村清太郎所持の「滝沢居屋敷廻并後之山」の樹木について、今川氏の朱印状なしに伐採することを禁止している。岡村家で祀っていたという西宮若宮社には天正一五年(一五八七)の棟札が伝わり、その銘文には「稲葉郷滝沢村西宮若宮」「願主岡村三郎左衛門、大工松永佐渡」の名がみえる(駿河志料)。寛永一二年(一六三五)の山西領水野監物知行渡村之帳に村名がみえ、高二一〇石余、田中藩領。

滝沢村
たきざわむら

[現在地名]金山町滝沢

大塩おおしお村の西一五町にあり、伊北いほう街道に沿う街村。村の南を只見ただみ川が東流し、端村たきは本村より西二四町にあり、さらに西二〇町に郡界をなす只子ただこ沢の渓谷がある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録の伊南いな郷分に滝沢がみえ、高二四四石余とあるが、伊南は伊北の誤記と思われる。安永七年(一七七八)の大塩組御手鑑(大竹家文書)では高二二三石余、免五ツ五分八厘、家数五〇、人数二二七(男一三七・女九〇)、馬一一、ほかに山伏一(若松南学院指南滝沢院)、産物は伊北布・真綿・絹糸・紙少々とある。

滝沢村
たきさわむら

[現在地名]笹神村滝沢、豊浦とようら町滝沢

北のじんヶ峰と本田ほんだ山の麓に位置し、西は村岡むらおか村に接する。寛文一三年(一六七三)の村上御領分組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)では笹岡組に属し、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳には高一〇七石六斗余とある。元禄郷帳には村岡村枝郷とあり、宝永四年(一七〇七)頃の元笹岡組御巡見御案内帳(渡辺家文書)では高二二九石余・田畑反別一九町五反余、家数二一、男八五・女七六。

滝沢村
たきざわむら

[現在地名]大田原市滝沢

東へ流れるほうき川左岸に沿って東西に細長く広がり、各所に湧水地がみられる。箒川対岸は佐久山さくやま町、西は平沢ひらさわ村。奥州街道が南北に通り、西へ薄葉うすば村方面への道が分れる。元和六年(一六二〇)の那須資重書状(那須譜見聞録)に村名がみえる。慶安郷帳では記載を欠き、元禄郷帳では旗本福原領で以後変化はない。天保年間(一八三〇―四四)の家数一四(改革組合村)

滝沢村
たきざわむら

[現在地名]松代町滝沢

曲流する渋海しぶみ川右岸にあり対岸は中子なかご村、南は片桐山かたぎりやま村、東と北は仙田せんだ(現中魚沼郡川西町)。天和三年郷帳では高一九石一斗余、反別三町五反余、漆木一四本。明治八年(一八七五)従前検地帳高内田畑屋敷外書上帳(立教大学蔵)には天和三年(一六八三)検地の記述があり、一八ヵ所に切替畑があり反別九反九畝余、七ヵ所に青苧畑があり反別三反余、一九ヵ所に雑木林があり役金一一銭五厘、山反別三七町八反余。

滝沢村
たきさわむら

[現在地名]東金市滝沢

酒蔵しゆぞう村の西に位置する。「鶴岡八幡宮寺供僧次第」補遺によると、応永七年(一四〇〇)に座心坊供僧職に補任された弘範の得分不足分を、別当坊社領内の「北山野辺郡内滝沢郷」を永代寄進することによって補っている。天正一八年(一五九〇)の徳川家康知行宛行状(書上古文書)に「やまノへノかうり滝畔村」とあるのは当地と考えられ、高二七六石余が小笠原氏に与えられている。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二七六石。

滝沢村
たきざわむら

[現在地名]黒羽町片田かたた

南流する那珂川上流左岸にある。元禄郷帳に村名がみえ、黒羽藩領。天保郷帳に村名は記されているが、改革組合村・旧高旧領取調帳にはない。一方、寛文四年(一六六四)の黒羽藩領知目録(黒羽町蔵)に「滝沢村」があり、「創垂可継」の封域郷村誌巻一では「福原之庄之内村々」として「竜沢」がみえ、給所入会ありと記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報