三原田村(読み)みはらだむら

日本歴史地名大系 「三原田村」の解説

三原田村
みはらだむら

[現在地名]赤城村上三原田かみみはらだ・三原田

赤城山麓崖上の天竜てんりゆう川北岸沿いに広がる村で、西部が三原田、東部が上三原田。中通道が上三原田を南北に通る。東は溝呂木みぞろぎ村、南は持柏木もちかしわぎ村、小室こむろ村・八崎はつさき(現北橘村)、西はたる村、北は見立みたち村・滝沢たきざわ村。三原田字西原にしはらに三原田住居跡群があり、三原田字仲畔なかうね諏訪下すわしもには小古墳がみられる。三原田字諏訪上の台地上から奈良時代の古瓦・瓦塔が発掘されて古代寺院の存在が想定される。地名は「松陰私語」に「三原田興善寺」とみえる。寛文一二年(一六七二)の長尾景光宛永井権兵衛書状(須田文書)によると、室町期三原田六郎義高が三原田寄居を築きこれに拠ったが、のち白井長尾氏が手に入れ、永井宗信・実綱にあずけ、以後、天正一八年(一五九〇)白井しろい(現北群馬郡子持村)落城まで永井氏は東廻十騎の一として長尾氏と運命をともにする。

「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳によると田方四五四石余・畑方二〇六石余。天和二年(一六八二)上野うえの村、貞享二年(一六八五)滝沢たきざわ村を分村(元禄一三年「村絵図写」上三原田区有文書)元禄郷帳では高四九八石余。明和五年(一七六八)まで一村前橋藩領であったが、同六年高井たかい蟹谷戸かにがいと大門だいもん仲坪なかつぼの四字(現在の上三原田地区)幕府領となり相給となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報