湯浦郷(読み)ゆのうらごう

日本歴史地名大系 「湯浦郷」の解説

湯浦郷
ゆのうらごう

阿蘇谷西部にあり、明治二二年(一八八九)成立の内牧うちのまき村の北方背後を馬蹄形に囲んだ外輪山内壁と外輪山上の高原を含み、東は遠見とおみはな(大観峰)へ至る尾根を境として、山田やまだと接し、西は当時沼沢地であったクグ牟田むた(千丁無田)を含めて狩尾かりお境まで、南はくろ川右岸を範囲とする。ただし黒川は中世は同地の北を流れ、右岸沿いは低湿地であった。また馬蹄形をなす湯浦低地の中央には花原かばる川が南へ流れ、黒川に合流していたが、花原川下流も沼沢化していたとみられ、現在も地下に葦や荻の泥炭化した層がみられるという。同地には弥生時代の住居跡なども検出されるが、阿蘇谷東部のように条里の痕跡を示すものはなく、中世における村落の形成・発展が顕著な地域であることを特色とする。近世の湯浦村・西湯浦村・小園こぞの村・折戸おりど村・宮原みやばる村が中世湯浦郷のなかに成立している。

寛正三年(一四六二)書写になる建武三年(一三三六)三月一一日の阿蘇社領郷村注文写(阿蘇家文書)に「一所三十町今ハ二十丁 湯浦郷」とみえる。阿蘇谷における郷名は治承年間(一一七七―八一)に検出でき(治承二年三月一三日「阿蘇社宮師僧長慶譲状案」同文書)、平安末期には存在していたといえるので、湯浦郷も他郷と同時期に行政単位として把握されていたといえよう。応永一六年(一四〇九)九月日の湯浦郷坪付山野境等注文写(同文書)によれば、各村の耕作坪付と山野境が明らかにされている。各村は背後に帯状の山野を割付けられ、中央平坦地に向けて田地を耕作し、斜面平地接点の湧水地や谷水の吐合地に屋敷が形成されている。これらは文明四年(一四七二)八月二五日の阿蘇山本堂造営棟別料足日記写(同文書)によれば「一所湯浦 家数二百五十 代二貫五百」とあり、二五〇棟の建物があったことになるが、二三ヵ村として一村当り約一一棟の規模となり、実質の経営体は二―五戸程度の屋敷からなる小集落であったと推測される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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