添田寿一(読み)そえだじゅいち

日本大百科全書(ニッポニカ) 「添田寿一」の意味・わかりやすい解説

添田寿一
そえだじゅいち
(1864―1929)

明治・大正期の大蔵官僚銀行家元治(げんじ)1年8月16日筑前(ちくぜん)国(福岡県)に生まれる。1884年(明治17)東京大学政治学理財学科卒業後、大蔵省入りし、3年間自費でイギリス、ドイツ留学。帰国後銀行制度の確立尽力、大蔵省監督局長、次官を歴任し1898年に退官。翌年台湾銀行頭取となり、ついで日本興業銀行(現みずほ銀行、みずほコーポレート銀行)が新設されると初代総裁として1913年(大正2)まで在職。のち、鉄道院総裁、中外(ちゅうがい)商業新聞社・報知新聞社社長となる。また労働者保護法の必要を説き、友愛会顧問になるなど幅広い活動をし、多方面にわたる啓蒙(けいもう)的な著作もある。1926年貴族院勅選議員となる。昭和4年7月4日没。

[大森とく子]

『広渡四郎著『添田寿一君小伝』(1924・実業同志会)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「添田寿一」の意味・わかりやすい解説

添田寿一
そえだじゅいち

[生]1864.8.15. 筑前
[没]1929.7.4. 東京
明治・大正の官僚,財政経済学者。 1884年東京大学政治学科・理財学科卒業,同年大蔵省に入省。 84~87年イギリス,ドイツに留学,ケンブリッジ大学で A.マーシャルに師事。帰国後,90年創刊の"Economic Journal"の日本通信員となる。 87年大蔵省主税官,93年貨幣制度調査会に政府委員として参加し金本位制度導入を主張。 96,98年には第1回,第3回農商工高等会議で工場法導入の要を説いた。 98年大蔵次官。 99年台湾銀行頭取,1902年日本興業銀行総裁,15年鉄道院総裁などをつとめ,25年貴族院議員。 23年武藤山治が主唱した実業同志会の運動に参加,鈴木文治を助けて友愛会の創立にも尽力した。

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朝日日本歴史人物事典 「添田寿一」の解説

添田寿一

没年:昭和4.7.4(1929)
生年:元治1.8.15(1864.9.15)
明治大正期の大蔵官僚,銀行家。筑前国(福岡県)生まれ。明治17(1884)年東大政治学理財学科を卒業,大蔵省に入る。直後イギリス,ドイツに留学。帰国後,大蔵省参事官として各種銀行法,貨幣法(金本位制)を立案し,その実現に努め31年次官で退官。同年東京帝大の経済学講師を委嘱され,32年に法学博士。同年新設の台湾銀行頭取,次いで35年新設の日本興業銀行頭取となり大正2(1913)年まで在職。その後鉄道院総裁,中外商業新報社長,報知新聞社長,14年貴族院勅選議員となる。経済に関する啓蒙的な著書多数。<参考文献>広渡四郎『添田寿一君小伝』

(守岡隆)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「添田寿一」の解説

添田寿一 そえだ-じゅいち

1864-1929 明治-昭和時代前期の官僚,銀行家。
元治(げんじ)元年8月15日生まれ。明治17年大蔵省にはいり,銀行制度の確立に尽力。大蔵次官をへて32年台湾銀行初代頭取,35年日本興業銀行初代総裁。その後中外商業新報社長,鉄道院総裁などをつとめる。貴族院議員。昭和4年7月4日死去。66歳。筑前(ちくぜん)(福岡県)出身。東京大学卒。

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