深川郷(読み)ふかわごう

日本歴史地名大系 「深川郷」の解説

深川郷
ふかわごう

太田おおた川は広島城下から一二・三キロ上った辺りで、支流三篠みささ川と分岐するが、そこから安北あんぽく(高宮郡)狩留家かるが付近までの三篠川流域の地をいう。

「芸藩通志」の中深川なかふかわ明光みようこう寺の項に、同寺蔵の朱字の法華経八巻に「文治三年丁未十二月四日未時許、於閻浮提大日本国安芸国北庄深河書写畢、願主慶明、執筆僧定慶」と記されているとある。建暦二年(一二一二)八月一九日付の佐伯考支同大子連署譲状写(毛利家文書)には

<資料は省略されています>

と記される。「深河」がきた庄内あるいは田門たと庄内とされている点はなお検討を要するが、この「深河」の地が、現在の高陽こうよう町の東半分にあたることはほぼ間違いあるまい。そのなかでも、神田・祭田・京免・福免・門田・政所・御供免・散使給など荘園制に由来すると考えられる地名が集中的に残る中深川は、深川郷の中心地であったと思われる。

深川郷
ふかわごう

和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。同書の長門国大津郡深川郷には「布加波」(東急本)・「不加々波」(高山寺本)の訓が付されているが、便宜上前者をとっておく。天平勝宝四年(七五二)一〇月二五日の造東寺司牒(正倉院文書)に、東大寺に与えられた封戸二五〇戸の内訳の一つとして「梁田郡深川郷五十戸」と記されている。当郷も少なくとも一〇世紀中期までは封戸としての実質を有しており、天暦四年(九五〇)一一月二〇日の東大寺封戸庄園并寺用雑物目録(東南院文書)によれば、梁田郡の封戸五〇戸(おそらく深川郷)からは、調布二三〇端二丈六尺・租穀二〇〇石・中男作物の紙一千八八〇張・仕丁代価(おそらく仕丁二人分の代価として銭四貫二四八文と調布二〇端)が納入されている。

深川郷
ふかわごう

「和名抄」高山寺本に「深川」と記し、「不加々波」と訓じるが、刊本では「布加波」と訓じる。「ふかは」と読むことが定説である。郡の南部から北部の深川湾に注ぎ込む深川川の下流域に開けた平野部にあたる東深川・西深川(現長門市)はその遺名とみられるので、ここを中心として北部の瀬戸崎せとざき浦に至る一帯を郷域に比定することでは諸書は一致する。すなわち現長門市仙崎せんざきと、渋木しぶき真木まき深川湯本ふかわゆもとを除く深川地区がこれに該当する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報