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神田
しんでん
神社の諸費用にあてる田地。令制では不輸租田であり,農民に対し賃貸する場合と,神戸 (かんべ) の農民が耕作する場合との2様があったが,売買は許されなかった。中世以降にも神社所有田として存続した。 (→神税 )
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かんだ【神田】
東京都千代田区北東部の
地名。上古、
伊勢神宮の神田
(かみだ)があったところからの
呼称。東京都三五区の一つであったが、昭和二二年(
一九四七)麹町区と合併して千代田区となる。二三区のほぼ中央にあり、神田生まれは
江戸っ子の代表とされた。大学や出版社、書店などが多い。神田神社(
神田明神)がある。
しん‐でん【神田】
〘名〙 (古くは「じんでん」とも) 神社に付属して、その収穫を神社の祭典や
造営、または神職の給料などの諸費にあてるための田地。
不輸租田とした。みとしろ。おおみた。かみた。
※令義解(718)田「凡田。六年一班。〈神田寺田。不レ在二此限一〉」
かみ‐た【神田】
〘名〙 神社に所属している田。この田からの収穫で
神事や造営の費用、神職の給料などをまかなう。神の田。
しんでん。
※古今著聞集(1254)一「神主牢籠の事ありて、論じけるものありとて、神田を刈とらんとしければ」
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神田
しんでん
律令制下の神社所有の土地
その収穫は神社の経費にあてられた。不輸租の特権が与えられ,売買は禁じられた。平安時代に入ると寄進などによって増加し,神領・御厨 (みくりや) と呼ばれる荘園となった。
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デジタル大辞泉
「神田」の意味・読み・例文・類語
しん‐でん【神田】
古代、収穫を神社の祭事・造営などの諸経費に充てるために設定された田。公田に準ずる不輸租田であり、売買は禁じられた。御刀代。
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かんだ【神田】
東京都千代田区北東部の地名。北は湯島,東は日本橋,南は大手町に接する。1878年東京府15区,1932年東京市35区の一つとなり,47年麴町区と合併して現在の千代田区となった。武蔵野(山手)台地の一部である本郷台(駿河台を含む)の南端部を,西・南・東側の低地が取り囲むような地形をなす。この本郷台南部には人工的につくられた外堀(神田川)が横切り,その南側の台地部分は駿河台と呼ばれる。神田は江戸時代の職人町,町人町から発展し,神田明神の神田祭などで威勢のいい下町的な所として知られている。
しんでん【神田】
神社の神饌や供祭料などの祭祀等の諸経費にあてる田地。《日本書紀》崇神7年11月条に〈天社,国社および神地,神戸を定む〉とみえるが,神田は大化前代から存在し,御戸代(みとしろ)と呼ばれた。律令制下では一般の田地と異なって,収授の対象から除かれている。また,神田の売買は禁止されていた。《令集解》にみえる明法家の古記説(大宝令を注釈した説)によれば神田を輸租田とするが,田租は神社の収入になり,実質的には不輸租田と同じである。
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神田
かんだ
現千代田区の北東部をよぶ広域地名。中世には江戸時代の神田橋御門周辺、江戸時代には現在の神田地区の東半分にあった町地を汎称。明治以降は駿河台・小川町・外神田も含んだ広域地名となった。北条氏所領役帳によると、太田新六郎知行地のうち六貫五八四文が江戸「神田内新堀方渋江分」に充てられている。神田明神あるいは伊勢神宮の神田が置かれたのが地名の起源と伝えられるが、確証はない。新堀は神田または芝崎村の中に含まれる地名。
〔江戸時代前期の様子〕
江戸時代の神田の範囲は、西は雉子橋御門から俎橋を経て小石川御門に至る線、南は雉子橋御門から外堀に沿って常盤橋御門北側の竜閑橋に至る線、東は同橋から北東に竜閑川を通り馬喰町(現中央区)を結ぶ線、北は小石川橋から東に神田川をたどり、駿河台の昌平橋から北に向かい外神田を含む一帯であった。一帯は平川の氾濫原で、本郷に続く丘陵地を除いて低湿地であったといわれる。元和六年(一六二〇)の牛込(飯田橋)から東への水路開削、丘陵地の掘割開削によって平川が大川(隅田川)へ流末が向かうように付替えられたため、当地域の開発が可能となったといわれる。併せて神田台(のちの駿河台)の本郷からの分割、外神田地域の成立となった。江戸時代前期は、筋違御門から浅草橋御門に至る神田川南岸から日本橋との境までの一帯(現在の須田町・岩本町・東神田など)には多数の寺社があり、寺町を形成していた。その西側、日本橋からの中山道、神田橋からの御成道を中心とする一帯(現在の鍛冶町・内神田辺り)には、幕府御用を勤める職人たちが拝領した国役町を中心に町屋があった。そして御成道の西側に広がる駿河台と小川町(現在の神田錦町・神田神保町・西神田・三崎町など)の一帯には武家屋敷が立並んでいた。
神田
かんだ
[現在地名]厳原町豆酘
木槲山を水源とし、保床山麓を流れ、豆酘浦に注ぐ神田川の流域を神田原という。神田が置かれていたことに由来し、現在も神様の田とよばれる斎田があり、故例による儀礼に従って神の米が耕作されている。神の米は赤米で、形状がいくぶん細長く、粘着性が乏しいなどインド型の品種のようにみえるが、日本型と同定されているもので、籾殻が茶褐色で、玄米にも赤身があるものの、精米すれば白くなる。天道法師が最初の種籾をもたらしたと伝え、天道の祭事ではすべてこの赤米が用いられる。
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世界大百科事典内の神田の言及
【江戸】より
…徳川氏は江戸を関八州の中心にしようと,低湿地の埋立て,船入堀の造成,橋の架設などを行った。神田湯島台などに屋敷地が造成されて三河などから家臣団を受け入れ,また日本橋辺の町地には畿内や東海地方からの商人が移住するようになった。しかしまだ江戸の町づくりは本格化していなかった。…
【古本屋】より
…江戸時代の出版,新古書店は,京橋,日本橋方面に多く,江戸時代末期から明治時代初期には芝方面にも多くなった。その時期神田は主として旗本の屋敷であったが,幕末・明治初年に東京大学,東京外国語大学,一橋大学,明治大学,専修大学,中央大学,法政大学,日本大学などの前身が開校するとともに学者・学生が集まり,書物の需要の増加によって神田書店街が出現した。明治10年代に淡路町,小川町付近に始まり,駿河台下から神保町,九段下,水道橋通りへと延びて今日に至っている。…
【官省符荘】より
…政府が,太政官符や,それをうけた民部省符を下して(これらを総称して官省符という),荘園の永代領有と,その田地からほんらい国に納めるべき租税を免除される不輸の特権とを公認した荘園。特定の神社・寺院に所有が認められた神田・寺田は,律令国家の初期にはまだ正式な不輸租田でなかったが,8世紀中期,天平宝字年間のはじめごろ,神田・寺田は公田として取り扱われるようになり,正式に不輸租田となった。そこで政府は,神田・寺田を官省符で不輸租荘園として公認する手続をとったのが,官省符荘のはじまりである。…
※「神田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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