石津郡(読み)いしづぐん

日本歴史地名大系 「石津郡」の解説

石津郡
いしづぐん

和名抄」東急本国郡部の訓注に「伊之津」とある。斉衡二年(八五五)閏四月一九日多藝たぎ郡を割いて建郡された。明治一一年(一八七八)に定められた郡区町村編制法により、同一三年上石津郡・下石津郡が成立した。近世の郡域は多藝郡を挟み二つに分れ、現在の養老ようろう郡上石津町全域と同郡養老町・海津かいづ南濃なんのう町・同郡海津町の各一部にあたる。

〔古代〕

郡名の初見は「文徳実録」斉衡二年閏四月一九日条の建郡記事。これは当地方の開発の進行、律令国家の郡郷再編成の動きの結果であろう。ただし古代の郡域は明確ではない。考古遺跡として下石津郡地区に庭田にわだ貝塚羽沢はざわ貝塚(南濃町)があり、当時海岸線が現南濃町付近まで及んでいたことを示している。同町の円満寺山えんまんじやま古墳は県下最古といわれる前方後円墳である。上石津郡地区では、不破郡との境南宮なんぐう山から象鼻ぞうび山にかけての牧田まきだ古墳群が注目される。そのうち二又ふたまた一号墳は、東海地方で初めて確認された彩色古墳である。現上石津町ときを中心に盗賊熊坂長範一党に関する伝承がある。長範伝承は東山道交通の要地であった不破郡垂井たるい町や大垣市赤坂あかさかにも残り、いずれも伊勢街道を中心とした交通の発達を示している。

「和名抄」には四郷が記載されるが、諸本とも訓を欠く。郡衙は現南濃町山崎やまざき付近に比定される山郷にあったと推定される(濃飛両国通史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報