高須輪中(読み)たかすわじゆう

日本歴史地名大系 「高須輪中」の解説

高須輪中
たかすわじゆう

現在の海津町・平田ひらた町のほぼ全域にわたる輪中。東の長良川と西の揖斐いび川、および両川を結ぶ大榑おおぐれ川によって囲まれた一帯で、海抜零―三メートルの低湿地帯になっている。宝暦治水の目論見絵図に高須輪中とみえ、南西部に本阿弥ほんなみ輪中、南端部に金廻かなまわり輪中を含む複合輪中であった。宝暦(一七五一―六四)当時の輪中形成に至る以前にも高須輪中の名は、寛永一三年(一六三六)の国役堤普請人足割付帳(県立歴史資料館蔵)にみえ、幕府代官岡田善政支配下のうちとして高須輪中家並役人足一千三四四人とある。なお輪中堤のようなより治水能力の高いものではなく、築捨堤や尻無堤、また潮除堤(百輪中旧記)といわれるものが中世においてもみられ、当輪中の前身とされるものは元応元年(一三一九)に形成されていたという。しかし破堤が繰返され、とくに天正一四年(一五八六)六月二四日の大洪水では堤が水面下に沈み、切所一〇八ヵ所に及んだと伝える。この折木曾川本流が流路を東に変え、同川を挟んで立地していた古高須輪中と古秋江あきえ輪中が一つになったという。そして近世初期に尾張国側で長大な連続堤が築かれたため、美濃側は木曾川の洪水をまともに被ることになる。

享保一三年(一七二八)の高須輪中村高付(原田文書)によれば、幕府領の村として安八あんぱち郡八ヵ村・海西かいさい郡一〇ヵ村・石津いしづ郡九ヵ村、尾張藩領分は安八郡九ヵ村・石津郡五ヵ村、ほかに三ヵ村を合せ高一万四千二一三石余。また伊勢桑名郡内の金廻村(現海津町)など三ヵ村で高九七〇石余があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報