浦之名村(読み)うらのみようむら

日本歴史地名大系 「浦之名村」の解説

浦之名村
うらのみようむら

[現在地名]高岡町浦之名

現高岡町西部に位置する。南を赤江あかえ(大淀川)が蛇行しながら東へ流れ、瀬越せごえ(浦之名川)北西から南東へ流れ赤江川に合流する。薩摩街道が赤江川と瀬越川の合流点付近の赤江川北岸をほぼ北東から南西へ通る。北東・南東は五町ごちよう村、北西は紙屋かみや(現野尻町)。明徳四年(一三九三)正月一八日の伊東氏発給とみられる八代光孝寺寺領当知行目録(高岡名勝志)に「穆佐院浦名」とみえ、名内の鵜木うのき河原田かわはらだ・楠牟礼・一色いつしき梁瀬やなぜ山田やまたなどに光孝こうこう(現国富町)の寺領があった。天正一二年(一五八四)五月一二日早朝、上井覚兼らは野尻のじり(現野尻町)を出発し、「田比良坂」の上で破籠を開いて食事をしたり、酒を飲んだりしてしばらく休憩をとり、宮崎城へ向かった(上井覚兼日記)。この「田比良坂」は当地田之平たのひら辺りであろうか。天正一六年八月五日の島津義弘宛日向国知行方目録には「うらの名」は一二町とみえる。天正年間に通用した日向国五郡分帳でも浦之名は一二町とある。

近世初期には野尻郷のうちで、慶長五年(一六〇〇)高岡が外城として立てられると高岡に属した(高岡名勝志)

浦之名村
うらのみようむら

[現在地名]入来町浦之名

入来川流域に位置し、北は副田そえだ村。南は入来峠、日置郡郡山こおりやま郷を経て鹿児島城下に至る。中世は清色きよしき村と称する入来院内の村であったが、近世初頭に浦之名村とされた。裏之名とも記された。入来郷に属した。慶長二年(一五九七)六月二日の長寿院盛淳・上井里兼連署知行方目録(旧記雑録)によれば、入来裏名のうち川床之かわとこの門・助四郎すけしろう屋敷の都合五町九反余・分米大豆七二石余が本田助丞に与えられている。同一九年七月二三日の知行目録(同書)では、入来院浦名のうち下大根田しもおおねだ門三〇石・ひらノ門二八石余が肝付蓮光坊に宛行われている。

浦之名村
うらのみようむら

[現在地名]金峰町浦之名

中津野なかつの村の東、金峰山(六三六・三メートル)の南麓に位置する。南東は川辺郷神殿こうどの(現川辺町)、北西は田布施たぶせ尾下おくだり村。阿多あた郷のうち。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳によると高六二六石余。「三州御治世要覧」によると延享(一七四四―四八)頃の高四五四石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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