浄蓮寺(読み)じようれんじ

日本歴史地名大系 「浄蓮寺」の解説

浄蓮寺
じようれんじ

[現在地名]東秩父村御堂

御堂みどう集落の中央やや西寄り、つき川の右岸山麓に位置する。妙栄山と号し、日蓮宗。かつては池上本門寺の末寺であった。本尊は一尊四士で、ほかに日蓮像を安置する。大河原おおかわら郷の領主であった大河原神冶太郎光興が日蓮に帰依して自邸を法華の道場に改め、日蓮の直弟子で相州鎌倉比企ひき谷妙本やつみようほん寺の二祖大国阿闍梨日朗を請じて開山とし、正応元年(一二八八)創建したと伝える。妙本寺の妙と、日朗が住職を兼務していた本門寺の山号長栄山の栄を取って山号、光興の法名浄蓮を寺号としたという。なお、光興の建立した法華堂に日蓮の御影を安置するようになったことから、御堂村の名が生じたともいう。当寺宛の年未詳三月二七日の上杉朝興書状(寺蔵、以下断りのない限り寺蔵文書)によれば扇谷上杉朝興が寺中の諸公事を免除している。

天文年間(一五三二―五五)には松山まつやま(現吉見町)城主上田氏の帰依を受け、同氏菩提所となった。上田氏帰依については次のような由来が語られている。上田朝直(宗調)が病に悩んでいたとき、朝直の夢枕に異人が現れ、坤の方向に日蓮の像を祀る法華の道場があり、この像に祈願をすれば必ず霊験があろうと告げた。

浄蓮寺
じようれんじ

[現在地名]北茨城市華川町小豆畑

花園はなぞの川が形成する谷の開口部にある。天台宗で猿田山遍照院と号し、本尊は阿弥陀如来。「新編常陸国誌」によれば大同年中(八〇六―八一〇)慈覚大師開基、建仁―建保(一二〇一―一九)の間祐法が中興とある。「古今著聞集」巻第二〇に建仁二年のこととして「常陸国の猿如法経写経に成功の事」と題した説話があるが、ここに語られた寺が当寺と伝えられる。好間氏がくるま城を領するに及び菩提所とした。天正―文禄(一五七三―九六)頃に二度焼け、嘉永元年(一八四八)また火災に遭う。

浄蓮寺
じようれんじ

[現在地名]津島市筏場町

延享五年(一七四八)村絵図には天王てんのう川東岸沿いの筏場いかだばの地にある。究竟山と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来立像。

永正八年(一五一一)二月一九日の方便法身画像(当寺蔵)の実如光兼裏書に「小林光明寺門徒、尾州海東郡門間庄津嶋、願主了願」とあるから現常滑とこなめ大野おおの町の光明こうみよう寺門徒の在家道場として創建され、慶長七年(一六〇二)一〇月一四日の親鸞聖人画像(当寺蔵)の教如光寿裏書に「尾州海西郡門間庄津島村浄蓮寺常住物也」とあるから、この頃に寺号が定まったと推定される。山号は宝暦一三年(一七六三)本山から免許された(徇行記)

浄蓮寺
じようれんじ

[現在地名]一宮市千秋町穂積塚本

古塚山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。境内六七五坪。創建不詳。ただし「尾張志」は天文年中(一五三二―五五)、順意の建立とする。「小治田之真清水」によれば、往昔勝栗かちぐり村の支郷五坊野ごぼの削栗けぐり神社の社僧として法持ほうじ坊・専光せんこう坊・法光ほうこう坊・法林ほうりん坊・法西ほうさい坊の五坊があり、ともに天台宗であった。

浄蓮寺
じようれんじ

[現在地名]高根沢町上高根沢 宿

野元のもと川の右岸にある。無量寿山阿弥陀院と号し、真言宗智山派。本尊は阿弥陀如来・不動明王。宝徳三年(一四五一)恵海の開基と伝え、恵海は宇都宮氏の一族で、宇都宮持綱の菩提のために等綱が建立したという。かつては末寺五・檀家四〇〇余を有し、堂宇を備えていたというが、嘉永五年(一八五二)六月三〇日に焼失した。明治元年(一八六八)に仮堂、大正一一年(一九二二)に本堂を建立した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「浄蓮寺」の解説

浄蓮寺

茨城県北茨城市にある寺院。天台宗。山号は猿田山、院号は遍照院。本尊は阿弥陀如来。大同年間、円仁の開基と伝わる。周辺は浄蓮寺渓谷と呼ばれ、33体の観音像が点在。紅葉の名所としても知られる。

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