浄明寺(読み)じようみようじ

日本歴史地名大系 「浄明寺」の解説

浄明寺
じようみようじ

[現在地名]丹原町田野上方

昔の松山道から東予とうよ吉田よしだへの通路が分れた右側に位置し、綾延あやのべ神社の西方にある。教栄山と号し、高野山真言宗本尊不動明王。

宝永七年(一七一〇)の「周布郡大手鏡」に「高野山法性院末寺 真言宗 教栄山福寿院浄明寺 本尊不動」とある。

明治初年の「伊予国周布郡地誌」には「弘仁八丁酉年二月二十八日快応律師開基創建ス、初メ護摩堂ト号セシカ慶安五壬辰年更ニ今ノ寺号ヲ立ツ」とある。寺伝(浄明寺文書)によると開基は天平期(七二九―七四九)とされ、のちに源頼義のとき宝寿院道満どうまん寺としたという。

浄明寺
じようみようじ

[現在地名]能代市檜山字檜山町

旧羽州街道に面する。真宗大谷派、善城山と号し、本尊は阿弥陀如来

「善城山浄明寺由緒世代記」・浄明寺系図(浄明寺蔵)によると、開基は西道。享禄三年(一五三〇)本堂建立。二世は安東昭季の弟成順、四世は安東実季の弟成就口伝に、古城主兄弟分れの寺ともいわれた。成就は信長の石山本願寺攻めの時、籠城したという。五世浄法は慶長六年(一六〇一)本願寺が分裂して東本願寺が成立すると、教如に従い、同一一年本仏尊像と寺号、教如上人寿像・聖徳太子像などを得ている。翌一二年に教勢展開のため、能代に掛所と称する道場を開いたが、これが能代浄明寺の起りである。能代浄明寺は当寺からの独立を企て、以後しばしば争論が生じた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報