油田村(読み)あぶらでんむら

日本歴史地名大系 「油田村」の解説

油田村
あぶらでんむら

庄川扇状地のほぼ中央、中世の千保せんぼ(庄川本流)西、新又あらまた川の東に位置する。鎌倉時代の史料には油田条とみえ、本来は国衙領であったと推定される。地頭平賀氏。弘安元年(一二七八)一二月一五日の平賀惟長譲状(平賀家文書)に「越中国油田条」とみえ、平賀惣領家の惟長は子供がいなかったため相伝の所領である当地など三ヵ所を舎弟惟致に譲った。同九年五月三日この譲与幕府より安堵され(「関東下知状」同文書)、永仁五年(一二九七)一一月一五日「あふらてん」などは惟致よりその嫡子貞泰に譲られた(「平賀惟致譲状」同文書)。正安二年(一三〇〇)七月二九日貞泰から弟熊王丸(惟藤)に当地など三ヵ所の地頭職が譲られた(「平賀貞泰譲状」同文書)。文保二年(一三一八)一一月二〇日、惟藤は実子同様に思って所領を譲ってくれた貞泰に対する恩返しを理由に、平賀家以外に相伝させないことを条件に貞泰の後家安芸尼御前に当地などを譲った(「平賀惟藤譲状」同文書)。元亨元年(一三二一)九月三日には惟藤の遺言に従って尼きやうかん(安芸の尼御前)より平賀氏庶子家から養子に迎えた平賀兼宗に譲られたが、きやうかんは手継文書などは訴訟のため鎌倉にいる代官から受取るように指示しており、当地を含む所領に関して相論が起きていることがわかる(「尼きやうかん譲状」同文書)

油田村
あぶらたむら

[現在地名]小見川町油田

竜谷りゆうざく村の南西に位置する。元禄郷帳に「アブラデン」と訓が付される。康永(一三四二―四五)頃と推定される年月日未詳の某書状(金沢文庫文書)に「油田殿」とみえる。殿城とのしろ一帯には木内胤朝の四子胤盛が築いたという砦があったとされ、胤盛は油田氏を称したという。慶長四年(一五九九)七月の検地帳(小見川町史)に「油田之郷」とみえ、高七〇〇石が打出された(「部冊帳」伊能家文書)。寛文四年(一六六四)の松平乗久領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、佐倉藩領。

油田村
あぶらでんむら

[現在地名]鹿沼市油田町

大芦おおあし川西岸に位置し、東は塩山しおやま村、南は佐目さめ村、北は下南摩しもなんま村。慶安郷帳では田三三九石余・畑一七四石余、壬生藩領。元禄郷帳では旗本三浦領。改革組合村では幕府領のほか旗本石谷・大屋・向坂の四給で、幕末に至る。天保年間(一八三〇―四四)の家数六〇(改革組合村)。元禄九年(一六九六)壬生みぶ奈佐原なさはら宿の定助郷となり、勤高五一一石(「奈佐原町助郷帳」黒川佐平文書)

油田村
あぶらでんむら

[現在地名]刈羽村油田

現刈羽村東方の飛地内にある。東は山を隔て三島さんとう大積おおづみ折渡おりわたり(現長岡市)、西は小黒須おぐろす(現柏崎市)、南は黒川くろかわ村、北は妙法寺みようほうじ峠に接する山間の村で、本村ほんそん白土しろつち中田代なかたしろ・下田代の集落が散在する。慶長三年(一五九八)妙法寺村(現西山町)から分村したという(刈羽村物語)

油田村
あぶらでんむら

[現在地名]上越市妙油みようゆ

妙賀みようが村の南、じゆう川の北岸に位置し、村の東から北に飯田いいだ川が流れる。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「嶋倉猪右衛門分桃井喜四郎分山田彦五郎分油田村 下」とみえ、本納六二石五斗五升二合・縄高一七八石九斗四升五合、家六軒・二〇人。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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