沖村(読み)おきむら

日本歴史地名大系 「沖村」の解説

沖村
おきむら

[現在地名]余市郡余市町潮見町しおみちよう豊浜町とよはまちよう白岩町しらいわちよう梅川町うめかわちよう

明治初年(同二年八月―同六年の間)から同三三年(一九〇〇)まで存続した村。山臼やまうす村の西にあり、北西部の蛸穴たこあなノ岬と滝ノ澗たきのまノ岬の間で湯内ゆうない川、その東のワッカケ岬と烏帽子えぼし岬の間で出足平でたるひら川が海に注ぐ。一八五六年(安政三年)・五七年の余市場所永住出稼書上(林家文書)にシマトマリ、ユウナイのほか、クワチャラウシ四戸(雇五五人)などとあり、母村は津軽の脇元わきもと(現青森県市浦村)七・小泊こどまり(現同県小泊村)三、江差二、上ノ国かみのくに二・汐吹しおふき(現上ノ国町)一。明治二年の余市本陣脇本陣役割人別書上(余市商工鉱発達史)によれば、テタリヒラ、シュマトマリ、ユウナイにそれぞれ脇本陣(旧番屋)が設置され、頭役・船頭役・下船頭各一、土人一二人が置かれた。

沖村
おきむら

[現在地名]上野市沖

市部いちべ村の南。西は長田ながた(木津川)、東は丘陵地で、地名は出水で沖のようになるからというが(沖村地誌)、当地方で人里離れた田や野良を「沖」、農休みを「沖止め日待」といい、柘植つげ川沿岸の古代伊賀最大の条里制水田万町の沖まんちようのおきと同じ意であろう。小字に上川原かみがわら・下川原があり、正徳三年(一七一三)の検地帳には川原田かわらだ上淵かみぶち・下淵・よど大水口おおみとなど旧河道を証する地名のほか市場いちば(現広畑)もあるが、市については不明である。

沖村
おきむら

[現在地名]富山市水橋沖みずはしおき

常願寺川東方に開けた穀倉地で、溜池が多く水利に恵まれている。東は小路しようじ村。村名は入部にゆうぶ日置ひおき神社を沖の御前と称したことにちなむとも、日置が干沖となって干拓の意味をもち田畑原野の開けた遠い所を沖と称したことによるともいう(水橋町郷土史)。大坪・下坪・坪田などの地名は、古代条里の遺称と考えられる。元和五年(一六一九)の三介組借米渡口覚(三辺家文書)に、滑川なめりかわでの請取分として「上条之内沖村」は九俵とみえる。正保郷帳では高五五七石余、田方三五町九反余・畑方一町二反、新田高四一石余。

沖村
おきむら

[現在地名]羽島市上中町沖かみなかちようおき

長間ながま村・一色いしき村の南に位置する桑原くわばら輪中内の村。年未詳六月八日の下間頼龍奉本願寺御印書(円覚寺文書)に「おき」とみえる。天正一七年(一五八九)一〇月、伊藤加賀守配下の馬場氏・見田氏によって検地が行われた。検地反別は一六町一反余(ほかに荒地五六町六反余)、名請人数五二、最高の所持反別は吉右衛門の二町三反余。慶長一九年(一六一四)にも検地が行われ、反別は二八町四反余(ほかに荒地四四町二反余)、名請人数五八、最高は庄屋助左衛門の一町七反余。この両年の名請人層の推移をみると(括弧内が慶長一九年)、二五反―二〇反一(なし)、二〇反―一五反二(一)、一五反―一〇反なし(二)、一〇反―九反一(五)、九反―八反なし(二)、八反―七反なし(二)、七反―六反一(六)、六反―五反なし(三)、五反―四反二(一五)、四反―三反四(八)、三反―二反八(五)、二反―一反一〇(五)、一反未満二三(四)となっている。

沖村
おきむら

[現在地名]吉川町豊岡とよおか

永門前えいもんぜん村の東に位置し、吉川川上流右岸の丘陵地に立地する。南に沖村新田がある。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は延宝七年(一六七九)幕府領となるまでは市野瀬いちのせ村に同じ。享保一五年(一七三〇)大坂城代土岐氏領となるが、寛保二年(一七四二)幕府領となる(享保一九年「土岐頼稔知行目録」土岐家文書など)

沖村
おきむら

[現在地名]院内町沖

津房つぶさ川下流の山間部に位置し、北は現宇佐市、東は北山きたやま村、南と西は小坂おさか村。小倉藩元和人畜改帳では高一〇八石余、家数九・人数三一(うち百姓五・名子三・鍛冶一)、牛三・馬一。百姓には庄屋が一名含まれる。延宝八年(一六八〇)には香下組に所属し、人数六〇(「人畜帳」庄家文書)。元禄豊前国高帳では高一〇九石余。一七世紀中期の年貢皆済目録(安部家文書)によれば、村高一〇〇石に対して物成は四〇石となっている。

沖村
おきむら

[現在地名]二宮町沖

鹿しか村の西、南流する五行ごぎよう川左岸の平坦地に位置し、北は横田よこた村。村の北部に厚木あつぎの字が残り、大永八年(一五二八)二月七日の宇都宮興綱寄進状(海潮寺文書)にみえる厚木郷に比定される。同寄進状によれば同郷の六貫文などの地が海潮かいちよう(現真岡市)に同寺領「光西寺」の替りに与えられた。享禄三年(一五三〇)と推定される欠年七月二三日の新潟県西蒲原にしかんばらまき町の菖蒲塚あやめづか古墳経塚出土経筒(金仙寺蔵)銘には「厚木住同道十八人」などとみえる。元和五年(一六一九)の下館藩領村高之留(坂入慶子文書)に村名がみえ高八四〇石余。慶安郷帳では田高六一八石・畑高二二二石・茶畑高一斗五升、幕府領。寛文四年(一六六四)旗本大森頼直領となる。

沖村
おきむら

[現在地名]井波町沖

川原崎かわらさき村の南西、西大谷にしおおたに川と干谷ひたに川に挟まれた小扇状地に立地。地内を流れる中江なかえ川・馬取うまとり川が北境付近で合流したび川となる。井波町から城端じようはな町への道が通る。慶長一〇年(一六〇五)の山銭皆済状(院瀬見区有文書)に村名がみえ、西院瀬見にしいぜみ村との入会山の山銭三六四文を納めている。この入会山は当村太郎兵衛らが山銭増納を条件に裁許権を得ようとしたが、西院瀬見村に敗れている(「山銭達状写」同文書)。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数一〇、北市組に属する。正保郷帳では高六四三石余、田方四〇町七反余・畑方二町二反。

沖村
おきむら

[現在地名]小笠原村母島ははじま猪熊谷いぐまだに西浦にしうら蝙蝠谷こうもりだに船見台ふなみだい大谷おおたに船木山ふなきやま静沢しずかさわ元地もとじ評議平ひようぎだいら中ノ平なかのたいら南崎みなみざき姉島あねじま妹島いもうとじま姪島めいじま

母島の南部を占める。明治二四年(一八九一)の世話掛設置概則制定時に、それまで沖村一村で一人の世話掛を置いた。同二九年の設置概則改訂で、母島を除く母島列島の諸島も当村に付せられた。集落は沖港の北に延びる谷間に発達。

沖村
おきむら

[現在地名]鶴田町沖

東は柏木かしわぎ(現板柳町)、西は中野なかの村、東南は狐森きつねもり(現板柳町)、北は横萢よこやち村に接する。

貞享四年(一六八七)の検地帳に狐森村の支村沖村とあり、田方五一町四反九畝三歩、畑方七町六反七畝二七歩、田畑屋敷合せて五九町一反七畝、村高五七〇・五一九石、百姓一八人と記し、「享保十一年郷村御改之節沖村本村ニ御立被成候」の貼紙があり、享保一一年(一七二六)本村になった。元禄三年(一六九〇)には赤田組に属し、村位は上である(平山日記)。天保五年(一八三四)の郷村帳によれば、文化九年(一八一二)に二三〇・九石、文政二年(一八一九)に二〇八石の新田高が書上げられている。

沖村
おきむら

[現在地名]新湊市沖

大坪おおつぼ川右岸、今井いまい村の東に位置。大坪川の灌漑原の古村で沖今井おきいまいとよばれていた。高岡町からの旧道である草島くさじま往来(御鷹野道)の路線にあったが、作道つくりみち往来(小杉街道)ができて裏街道となった。天正一〇年(一五八二)二月一〇日の知行方目録(越佐史料所収川辺氏旧記)では、なか郡「おき・いなすミ一円」が神保信包に与えられている。正保郷帳では高四〇三石余、田方二五町六反余・畑方一町二反。

沖村
おきむら

[現在地名]古平郡古平町大字沖町

明治初年(同二年八月―同六年の間)から同三五年(一九〇二)まで存続した村。歌棄うたすつ村の東にあり、北部は海に面する。明治四年の「北海紀行」にラルマキとみえ、戸数二三。同五年ラルマキを沖村と改称したという(状況報文)。同六年の「後志国地誌提要」に沖村とみえ、戸数二四(すべて平民)・人口九三、寄留戸数四(平民)・人口二七二(うち男二四三)、三半船二〇、また事代主ことしろぬし神社(弘化二年建立)が祀られていた。明治六年の建網一八投・差網一二九放(原田家文書)。同一二年の「共武政表」に戸数七四・人口三五五、学校一、物産は大麦・小麦・大豆・小豆・豆・馬鈴薯・薪・炭・鶏・諸木材・鰊・鮭・鱈・鮃・鮑とある。

沖村
おきむら

[現在地名]倉敷市沖・沖新町おきしんまち堀南ほりなみ

安江やすえ村の南に位置する。「備中誌」はかつての阿知あち潟の沖にあたることが村名の由来と伝え、元和四年(一六一八)の新開発としている。東高梁ひがしたかはし川分流の沖川の河道を開発した本村に、寛永六年(一六二九)開発の新田を加えたものであろうと思われる。寛永備中国絵図に沖村、その南に沖新田とみえ、高は沖村が一六八石余、新田には高の記入がない。松山藩領。

沖村
おきむら

[現在地名]小松市沖町

打越うちこし村の西に続く平坦地にあり、西は小松町。人家が三ヵ所に分れており、中央にあるのが本村で中出なかでといい、東の枝村を上出かみで、西の枝村を江尻えじりという。正保郷帳では高一千九八石余、田方六二町余・畑方二町五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高一千一一七石、免五ツ二分、小物成は畳表役一四〇匁(三箇国高物成帳)。藺莚の生産が盛んで、慶長六年(一六〇一)から上納したという(小松市史)

沖村
おきむら

[現在地名]土浦市荒川沖あらかわおき

なか村の南にあって、水戸街道沿いに位置する。幕末に荒川沖村と改めた(各村旧高簿)。江戸時代は牛久藩領で、元禄二年(一六八九)三月の野境証文之事(酒井和男氏蔵)に「一、貞享四卯年沖村荒川村拾石村と右籾村烏山村境出入ニ付、荒川三ケ村より御 公儀様御訴訟申上候所ニ」とあり、沖、荒川・拾石じつこく(実穀)(現稲敷郡阿見町)三ヵ村と右籾みぎもみ烏山からすやま二ヵ村との草刈場境出入は、貞享二年―元禄二年(一六八五―八九)に及ぶ大紛争であった。

沖村
おきむら

[現在地名]塩川町吉沖よしおき

第六天だいろくてん村の西に位置する。小荒井組に属し、西は鎧召よろいめし村、北は柴城しばじよう村。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では尾木とあり、高三〇六石余。寛文六年(一六六六)の「会津風土記」に村名が載る。「新編会津風土記」では家数一七、鎮守は稲荷神社。浄土宗随願ずいがん(現廃寺)は寛永八年(一六三一)塩川村阿弥陀寺正波の開基という。文化一五年(一八一八)の村日記では高二八二石余。明治四年(一八七一)の家数一八・人数一〇三(人員録)

沖村
おきむら

[現在地名]瀬戸町沖

しも村の南、すな川東岸の氾濫原上の平地に位置する。寛永備前国絵図では高一八一石余。「備陽記」によれば岡山京橋(現岡山市)まで道程三里一〇町、田畠一七町余、家数二七・人数二〇二。天保年間の「磐梨郡三組手鑑」では直高三二六石余、家臣一名の給地。田高一五一石余・一一町八反余、畑高四九石余・五町四反余、物成合計一二四石余。

沖村
おきむら

[現在地名]鏡野町沖

東は上田邑かみたのむら(現津山市)、西は竹田たけだ村、南は布原ぬのはら村、北は沢田さわた村・円宗寺えんじゆうじ村に接する平地村落。正保郷帳に高二八六石余、うち田方二五五石余・畑方三一石余とある。「作陽誌」では家数二二・人数一一八。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高五三石余、開高九石余。

沖村
おきむら

[現在地名]高松市上天神町かみてんじんちよう

万蔵まんぞう村の西に位置し、御坊ごぼう川の二本の支流が合流する沖積地に立地。寛永国絵図に村名がみえるが、高は坂田さかた郷で一括されている。貞享高辻帳では高三三一石余。池泉合符録によると水掛高三一七石余の亀池、同高一三九石余の阿部ノ井などがある。

沖村
おきむら

[現在地名]笹神村沖

北は関口新せきぐちしん村、南は島田新しまだしん村に接する。正保国絵図に二八〇石余とあり、村上藩領。寛文一三年(一六七三)の組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)では笹岡組に属し、元禄郷帳の高は二五九石余。宝永四年(一七〇七)頃の元笹岡組御巡見御案内帳(渡辺家文書)によれば高三〇七石余・田畑反別二二町五反余、家数二〇、男五七・女七〇。

沖村
おきむら

[現在地名]秦荘町沖

南は本持もともち村、南東はしよう村。慶長五年(一六〇〇)彦根藩領となり、慶長高辻帳に村名がみえ、高三七八石余、うち小物成一石。元禄八年大洞弁天寄進帳では男九八・女九二、寺社方男女各二。天保八年(一八三七)六月の火事で一軒が焼失、嘉永元年(一八四八)八月の大水で村前の宇曾うそ川の堤が三ヵ所切れた(「山田記録」山田文書)

沖村
おきむら

[現在地名]西春町沖村

九之坪くのつぼ村の西にあたる。村の北半から北へかけては条里制の遺構がみられる。寛文一一年(一六七一)には家数九三、男三三二人・女三一七人(寛文覚書)。「徇行記」によれば、田は六三町三反七畝余、畑は四二町三反七畝余で、概高一千五八四石余のほとんどが藩士二一人の給知。

沖村
おきむら

[現在地名]深谷市起会おきあい

小山こやま川右岸の沖積低地に位置する。「風土記稿」によると沖宿おきじゆく村と入会の地で、深谷領に所属。用水は備前渠びぜんきよ用水を矢島やじま堰より取水している。田園簿に沖之郷村とみえ、田方一六四石余・畑方三五石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本肥田領と幕府奥医師谷辺・伴の二家の相給。

沖村
おきむら

[現在地名]金沢市沖町

磯部いそべ村の南、浅野川右岸に位置。正保郷帳によれば高四〇四石余、田方二五町三反余・畑方一町五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高四一七石、免六ツ五歩(三箇国高物成帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報