橘氏(読み)たちばなうじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「橘氏」の意味・わかりやすい解説

橘氏
たちばなうじ

源平藤橘(げんぺいとうきつ)と総称される四大姓の一つ。708年(和銅1)元明(げんめい)女帝即位の大嘗会(だいじょうえ)に際し、県犬養橘三千代(あがたいぬかいのたちばなのみちよ)(藤原不比等(ふじわらのふひと)の妻)が天武朝(てんむちょう)以来後宮に仕えた功労を賞せられ、坏(さかずき)に浮かぶ橘にちなんでこの氏を賜ったのに始まる。733年(天平5)三千代は没したが、736年三千代の遺児(前夫美努(みぬ)王の子)葛城王、佐為(さい)王は母姓を継がんと奏請して許され、橘諸兄(もろえ)、同佐為と名のった。佐為は直後に没したが、諸兄は以後大納言(だいなごん)、右大臣、左大臣と昇進し、正一位に至り、十数年にわたり政治の実権を握り、750年(天平勝宝2)には宿禰(すくね)姓から朝臣(あそん)姓に昇った。757年、子の奈良麻呂(ならまろ)が藤原仲麻呂打倒のクーデターに失敗して倒れ、一時衰えたが、平安初期、嵯峨天皇(さがてんのう)の皇后橘嘉智子(かちこ)(檀林皇后(だんりんこうごう))が出ると、兄氏公(うじきみ)(783―848。薨伝(こうでん)では弟)は右大臣となりふたたび繁栄を取り戻した。しかし、その後は藤原氏に押されて、承和(じょうわ)の変(842)で逸勢(はやなり)は流罪となり、阿衡事件(あこうじけん)(887)では広相(ひろみ)が苦境にたつなど、衰退の途(みち)をたどり、大学別曹(べっそう)の学館院(がっかんいん)の管理、氏挙(うじのきょ)なども藤原氏にゆだねることとなった。橘氏の後裔(こうえい)を称する者は諸国に多いが、なかでも河内(かわち)の楠木(くすのき)氏は有名である。

[黛 弘道 2017年9月19日]


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改訂新版 世界大百科事典 「橘氏」の意味・わかりやすい解説

橘氏 (たちばなうじ)

古代に勢力をもった氏。県犬養三千代が708年(和銅1)11月,歴代の天皇に仕えた功により橘宿禰の氏姓を賜った(橘三千代)。ついで736年(天平8)11月,美努王との間の子の葛城王と佐為王は臣籍に下って母の氏姓をつぎたい旨を上表して認められ,橘宿禰諸兄および同佐為(さい)と名のるようになった。これが橘氏のおこりである。750年(天平勝宝2)1月,諸兄は朝臣の姓(かばね)を賜っている。彼は737年の藤原4卿の急死によって政権を掌握し左大臣にまで昇ったが,藤原仲麻呂と対立し,密告によって756年2月に辞任し,翌年1月没した。その子奈良麻呂は早くから藤原仲麻呂打倒計画を立て,同志をつのっていたが,757年(天平宝字1)に発覚し誅されたらしい。この事件によって橘氏の勢力は一時後退したが,平安時代に入り,奈良麻呂の子の世代になってしだいに復活のきざしをみせた。しかし807年(大同2)の伊予親王事件にまきこまれ,奈良麻呂の子の安麻呂や,同じく子の入居(いるいえ)の子の永嗣(継)が縁坐した。その後,奈良麻呂の子清友の女嘉智子が嵯峨天皇の後宮に入りやがて皇后となって檀林皇后と称し,その弟の氏公も昇進し右大臣に至った。その後,橘逸勢(はやなり)(入居の子)は三筆の一人に数えられる書家であったが,842年(承和9)承和の変にまきこまれて流罪に処された。また参議となった橘広相(ひろみ)(奈良麻呂の子嶋田麻呂の3世の孫)は,その女の義子を宇多天皇の後宮に入れ,天皇の信頼を得ていたが,887-888年(仁和3-4)の阿衡(あこう)事件で失脚した。以後,橘氏はあまりふるわなかった。
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百科事典マイペディア 「橘氏」の意味・わかりやすい解説

橘氏【たちばなうじ】

古代の氏族。美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい)三千代が708年に橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられる(橘三千代)。子の諸兄(もろえ)は左大臣になったが,奈良麻呂は藤原仲麻呂を除こうとして失敗。嘉智子(かちこ)が嵯峨天皇の皇后となり橘氏を再興したが,藤原氏の隆盛で衰えた。→橘諸兄橘奈良麻呂橘嘉智子
→関連項目氏長者学館院名字の地

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「橘氏」の意味・わかりやすい解説

橘氏
たちばなうじ

古代の名族。皇別。敏達天皇5世の孫美努 (みぬ) 王から出た。美努王は県犬養 (あがたのいぬかい) 三千代を妻として,葛城王と佐為王とをもうけた。和銅1 (708) 年三千代が大嘗会の宴に列席し,天皇から杯に浮ぶ橘を賜わり,かつ橘宿禰 (すくね) の姓を贈られた。美努王の死後,葛城王と佐為王とは,天平8 (736) 年上表して,母の橘宿禰の姓を名のり臣籍に下り,葛城王が橘諸兄,佐為王が橘佐為を称したのに始る。諸兄は大納言,右大臣,正一位左大臣となった。その子,奈良麻呂の孫娘嘉智子が嵯峨天皇の皇后となり,その縁から弟の氏公は右大臣となった。しかし,平安時代初期の書家として三筆の一人にあげられている橘逸勢が,承和の変で流罪に処せられて病死したり,参議橘広相 (ひろみ) が阿衡事件でその地位を失うなど,橘氏の勢力は衰えていった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「橘氏」の解説

橘氏
たちばなうじ

橘諸兄(もろえ)を始祖とする氏。四姓(源平藤橘)の一つ。736年(天平8)に三野(みの)王の子の葛城(かずらき)王(橘諸兄)と佐為(さい)王が,母の県犬養(あがたいぬかい)三千代が元明天皇から賜った「橘氏の殊名」を伝えるため,臣籍に降下して始まった氏で,実質的始祖は三千代ともいえる。諸兄は左大臣・正一位にまで昇り,750年(天平勝宝2)には朝臣に改姓。諸兄の死後は子の奈良麻呂が藤原仲麻呂への反乱を企てたが,失敗して勢力を失う。奈良麻呂の孫の嘉智子(かちこ)が嵯峨天皇の皇后となり仁明天皇を生むに及んで平安前期には再び隆盛を迎え,氏院学館院の創設,氏社梅宮社の創祀もなされた。嘉智子の死後はしだいに衰え,10世紀後半には氏の公卿が絶えて,氏爵(うじのしゃく)推挙は藤原氏の是定(ぜじょう)にゆだねられることとなった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「橘氏」の解説

橘氏
たちばなうじ

古代の氏族。四姓 (しせい) の一つ
敏達 (びだつ) 天皇5世の孫美努王 (みぬおう) の妻県犬養三千代 (あがたのいぬかいのみちよ) (橘三千代)が708年に橘宿禰の姓を与えられたことに始まる。736年三千代の子葛城王が臣籍に移って橘諸兄 (もろえ) と称した。諸兄の子奈良麻呂は757年乱をおこそうとして失敗(橘奈良麻呂の変)。平安初期,奈良麻呂の孫嘉智子 (かちこ) が嵯峨天皇の皇后となり,橘氏のため学館院を創設した。承和 (じようわ) の変(842)で逸勢 (はやなり) (三筆の一人)が流罪となり,以後急速に衰微した。

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世界大百科事典(旧版)内の橘氏の言及

【県犬養氏】より

…神魂命(かむむすひのみこと)の後裔と称する神別氏族で,本姓は連(むらじ)であったが,672年の壬申の乱に一族の大伴が大海人皇子の舎人として功を立て,684年(天武13)八色の姓(やくさのかばね)の制定にともなって宿禰(すくね)姓を改賜された。一族の三千代(橘三千代)は天武朝から元正朝までの5朝に歴任し,元明天皇から橘氏を賜った。彼女は夫藤原不比等を助けるかたわら,同族の繁栄をはかり,県犬養広刀自を聖武天皇の夫人とした。…

【学館院】より

…平安時代の橘氏の子弟のための教育施設。学官院,学宦院とも記す。…

※「橘氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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