横堀村(読み)よこぼりむら

日本歴史地名大系 「横堀村」の解説

横堀村
よこぼりむら

[現在地名]子持村横堀

北牧きたもく村の北西にあり、東は中郷なかごう村、西は小野子おのこ(現小野上村)吾妻あがつま川の左岸、子持山の南西麓にあたり、南の吾妻川沿いには小野子村の飛地寄島よりしま集落がある。三国街道の宿場で、中央字夏保なつぼの北を同街道が南北に走り、宿は西方より上・中・下と分れている。さらに北に石本いしもとあずまの集落があり、宿の近くに当初の開拓地元横堀もとよこぼり(横堀新田)がある。古くは小野子村と一村で、正徳年間(一七一一―一六)の植野堰最初掘立御普請書(武井文書)には慶長一〇年(一六〇五)「小野子より横堀を出ス」とみえるが、寛文六年(一六六六)検地帳(横堀区有文書)には小野子村横堀分とあり、上畑二町二反余・中畑四町八反余・下畑一一町三反余・下々畑一四町五反余・山畑一五町六反余。寛文郷帳では横堀新田村とあり、すべて畑方で高二八四石、幕府領。江戸後期の御改革組合村高帳でも同領で、家数八八。

横堀村
よこぼりむら

[現在地名]仙北町横堀

川口かわぐち川右岸に位置し、川向いに、宮内みやうち(現太田町)板見内いたみない村がある。東は中里なかざと(現太田町)、西は福田ふくだ村、北は駒場こまば(現太田町)沖郷おきのごう村(現中仙なかせん町)と接する。東から西へ緩やかな傾斜のある水田地帯である。

天正一八年(一五九〇)の出羽国仙北之内北浦郡御検地目録帳(戸沢文書)に「横堀村」とみえ、田七五町五段、畑・屋敷六段五畝、高合計九一二石五斗であった。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図では下一桁は判読不能だが七九〇余石とある。享保一四年(一七二九)の黒印高帳(秋田県庁蔵)には当高で本田七二二石余、本田並一三九石余、新田二一三石余、合計一千七五石九斗三升九合とある。

横堀村
よこぼりむら

[現在地名]大平町横堀

牛久うしく村の南東、南流する巴波うずま川西岸に立地し、対岸東は北武井きたたけい村、南は上高島かみたかしま村と接する。村内を栃木宿と野木のぎ宿を結ぶ脇往還が通る。慶長一四年(一六〇九)までは皆川氏領であったとみられる(延享元年「皆川歴代記」皆川又太郎文書)。慶安郷帳では田五六八石余・畑一七〇石余・野銭一四石余・延石六二石余で、旗本小林・佐久間・佐々領の三給。

横堀村
よこぼりむら

[現在地名]三郷市新和しんわ

一本木いつぽんぎ村の西に位置し、南は長戸呂ながとろ村。村内を新宿にいじゆく(現東京都葛飾区)から下総国葛飾郡流山村に通じる道が通る。田園簿に記載がなく、もとは高須たかす村の内とされ(風土記稿)元禄郷帳では「長戸呂村ノ内」として横堀村とみえる。しかし寛文二年(一六六二)の質地証文(田中家文書)差出人の肩書には横堀村とみられ、この頃にはすでに一村として認識されていたとみられる。また延宝元年(一六七三)以降の年貢割付が記された年貢割付写(同文書)によると、元禄九年(一六九六)までは「長戸呂横堀一本木村」宛であるが、同一一年三月に出された割付から横堀村宛となっており、元禄検地によって分村したと考えられる。

横堀村
よこぼりむら

[現在地名]那珂町横堀

田彦たびこ(現勝田市)から額田ぬかだ村に通ずる棚倉たなぐら街道下町したまち通が村の中央を縦貫する。東は向山むこうやま村。文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「よこ堀」とあり、寛永二一年(一六四四)の御知行割郷帳に「横堀村」とみえる。「水府志料」によると戸数およそ九〇。

横堀村
よこぼりむら

[現在地名]前橋市西善町にしぜんまち 横堀

那波なは郡に属し、北と東は中内なかうち村、南は藤川ふじかわ(現佐波郡玉村町)、西は西善養寺にしぜんようじ村。古くは西善養寺村両家りようけ村・矢田やた村と一村であったが、時期は不明だが分村したという(郡村誌)

横堀村
よこぼりむら

[現在地名]千代田村横堀

北は五反田ごたんだ村、西は大峯おおみね村。下志筑しもしづく村の新開地であったが、寛永一〇年(一六三三)に横堀新田として独立、正保―元禄(一六四四―一七〇四)の間に横堀村となったと伝える(新編常陸国誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報