児島郡(読み)こじまぐん

日本歴史地名大系 「児島郡」の解説

児島郡
こじまぐん

面積:三〇・五二平方キロ
灘崎なださき

県の南端中央部に位置し、市制施行および編入がなされるまでは灘崎町・玉野市・岡山市の児島湾西岸と北岸、倉敷市の南東部の各域を郡域とした。近世までは備前国に属し、北西部で備中国都宇つう郡と接した。近世初頭までは海峡を隔てて島であった。中世以降の東高梁ひがしたかはし川などの河川の沖積作用や近世以降の新田開拓によって陸続きとなり、児島半島となった。児島湾の干拓事業は昭和三八年(一九六三)七区しちく干拓地の完成によって完了した。なお「和名抄」東急本には「古之末」と訓を付す。

〔原始・古代〕

瀬戸内海がまだ陸地であった旧石器時代の遺跡には、鷲羽山わしゆうざん遺跡・竪場島たてばじま遺跡(倉敷市)宮田山みやたやま遺跡(玉野市)などがあり、とくに鷲羽山遺跡は西日本の旧石器時代の遺跡として最初の発見で、学史的に重要な位置を占める。縄文時代の遺跡には、彦崎ひこさき貝塚、田井長崎鼻たいながさきはな遺跡(玉野市)磯の森いそのもり貝塚・船元ふなもと貝塚・舟津原ふなつばら貝塚(倉敷市)などがある。弥生時代の遺跡も多く、主要なもので一一以上を数えるが、なかでも貝殻山かいがらやま遺跡(岡山市)は標高約二八四メートルの眺望のよい山頂に営まれた中期の高地性集落で、周囲に対する見張りと通報の役割をもった小集団の遺跡としての特色をもつ。このほか菰池こもいけ遺跡・前山まえやま遺跡・じよう遺跡(倉敷市)こおり遺跡(岡山市)などがある。かつての郡域に前方後円墳は未発見であるが、八幡大塚やはたおおつか二号墳(岡山市)は径約三五メートルの円墳で横穴式石室をもち、玄室に組合せ式石棺が安置され、金製垂飾付耳飾一対、銀製で鍍金のある「うつろ玉」のほか甲・大刀・馬具・刀子などを副葬していた。また出崎長崎でさきながさき遺跡(玉野市)などの土器製塩遺跡も多い。このほか児島湾上に浮ぶ高島たかしま遺跡(岡山市)は複合遺跡で、縄文晩期、弥生前期の土器も出土するが、五世紀末から六世紀初頭にかけての時期を中心とした祭祀関係遺物を豊富に出土しており、この地が航海の安全などを祈念する祭祀の場であったことを示している。

児島は記紀に比較的多く記される。「国生み」伝承に関しては「古事記」に「生吉備児嶋、亦名謂建日方別」とあり、これに次いで小豆あずき(現香川県小豆郡)を生んだとある。「日本書紀」巻一神代上に、「大八洲」の最後に「吉備子洲」を生んだと記す。いわゆる神武東征伝承に関しては、「古事記」では「吉備之高嶋宮」に八年間とどまったとあり、書紀では「高嶋宮」に三年とどまり軍備や糧食を備えたとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報