森城跡(読み)もりじようあと

日本歴史地名大系 「森城跡」の解説

森城跡
もりじようあと

[現在地名]大町市大字平 森

現大町市大字たいらの森集落北部にあり、北方の現新潟県糸魚川いといがわ市から始まって現北安曇きたあずみ小谷おたり村・同郡白馬はくば村を経、佐野さの坂を越えて続く五〇キロ以上に及ぶ山地が、まさに終わって松本盆地へ出ようとする位置に森城がある。しかも北に木崎きざき湖、西に小熊こぐま山などの天然の障害を伴った絶好の城地で、代々現大町市を中心に勢力を振るっていた仁科氏の北方への拠点であった。

主郭は、木崎湖に向けて岬状に突き出た台地上の東西二六間、南北三六間の平坦地で、周囲は現状三尺以上の土居をめぐらして方形の郭となっている。

森城跡
もりじようあと

[現在地名]海士町海士

海士にある中世の城館跡。森屋敷とも称され、村上氏の拠点であった。新宮しんぐう社大般若経第五九三奥書(村上家文書)に森城とみえ、永禄九年(一五六六)七月二日、但州の海賊一〇〇余艘が豊田とよだに着き、翌三日に当城に攻め寄せ、源福げんぷく寺坊中二、三が焼失したという。村上家に伝わるこれにかかわると推定される隠岐孫三郎宛の年未詳七月一二日付小早川隆景感状(二通)によれば、但馬丹後に拠点を置く尼子方の海賊船が都万つま勢と結んで海士郡に渡り固屋(森城)を攻め合戦となったが、籠城していた村上右京亮をはじめとする村上氏四名のほか、今藤氏二名・伊藤氏一名・田平氏三名・吉田氏二名・身代氏一名が奮闘し、これを撃退したという。

森城跡
もりじようあと

[現在地名]土佐町土居 花瀬

土居どい北西和田わだに接する花瀬はなせ(六九五・二メートル)にあり、土豪森氏が居した中世の山城跡。現在、城地と考えられる所に城山・城ツルイの地名が残る。

「南路志」によれば、森氏は近江国鏡山の城主であったが森近江守頼実のとき当地に定着し築城、土佐郡二千貫の領主となった。その後頼実は長岡郡本山もとやま(現本山町)本拠とする本山氏に度々攻撃され、天文一三年(一五四四)和田一族と結んだ本山勢に攻められ、当城で討死した。

森城跡
もりじようあと

[現在地名]宇ノ気町森

当町東部丘陵地帯の西先端に鉢を伏せた形の独立小丘に所在。東西約一〇〇メートル、南北約一五〇メートル、標高二三メートル。北・西・南三方沖積平野で、頂部からは西に河北砂丘、南に河北潟を遠望できる。頂部上段の郭は東西三二メートル、南北二五メートルのほぼ五角形の平坦面である。南側と西側の縁に幅三―六メートル、高さ一メートル前後の土塁が遺存し、東半分には八幡神社の社殿と稲穂いなほ社の祠堂がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「森城跡」の解説

森城跡

(長野県大町市)
信州の史跡百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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