海士村(読み)あまむら

日本歴史地名大系 「海士村」の解説

海士村
あまむら

[現在地名]海士町海士

現海士町の北部中ほどを占め、なかノ島北部の深い入江(現諏訪湾)に注ぐ諏訪すわ川の流域に広がる。海士郡の中心となる地で、海部あま郡海部郷(和名抄)の遺称地とされ、中世にも国衙領海士(郡)に含まれた。慶長一八年(一六一三)九月に松江藩による検地が行われ、葛尾くずお牧・羽仁粟はにあわ牧・横手よこて牧・日平につぺ牧・高木たかぎ牧・小舟おぶね牧・蔵田くらた牧・西橋にしはし牧・なか牧・高佐たかさ牧・馬弓まゆみ牧・鴨入道かにゆうど牧・段合だんごう牧・花田はなだ牧などがみえ、牧上畑は四斗代、中畑は二斗代(島根県史)正保国絵図に海士村とみえ、また海士のうちとして東分ひがしぶ・西分・ひししき・北分などの村内地名も確認できる。うち東分・西分・北分は中世よりみえる(→海士。「隠州視聴合紀」ではもり郷を独立して記載する。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、高一千七一石余のうち田方七七一石余・五七町四反余、畑方二九八石余・一八七町五反余、ほかに新田畑一一石余。小物成は竈役面判銀(以下断りのない限り同銀)六七匁分・漁請役三九匁・鰤一四本役一六匁八分・海苔一斗六升役一匁一分・大鯛一四枚役二匁八分・柄油一斗四升役二匁八分・核苧一貫九八〇目役五匁二分・牛皮二一枚役丁銀四二匁、串鮑一連八串役は米四斗、串海鼠二連二串役は米一斗四升七合で代納している。

海士村
あまむら

[現在地名]久美浜町字海士

川上谷かわかみだに川下流、東側山麓に集落をつくる。西に耕地が広がり、南は橋爪はしづめ村、北は甲山こうやま村に接する。海士付近には橋爪遺跡があり、弥生式土器が多く出土する。海士と甲山との間の山地には古墳も多い。小字赤池あかいけの経塚からは土製経筒が出土した。

丹後国田数帳に「海士郷 四十四町六段百九十八歩 佐野四郎」とみえる。中世末の丹後国御檀家帳には「川かみのあま 家八拾斗」とあり、向左衛門尉・鎌谷与五郎の名が記される。

海士村
あまむら

[現在地名]市原市海士有木あまありき

大坪おおつぼ村の東、養老ようろう川右岸に位置する。「和名抄」の上総国市原郡海部あま郷の遺称地とされ、中世には海郷とみえる。江戸時代は有木ありき村と一村扱いの場合がある。乾元二年(一三〇三)四月二二日の足利貞氏下文案(倉持文書)市西しさい郡内海郷とみえ、当郷は足利氏の根本被官である倉持師経に安堵されている。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高七七一石。寛永三年(一六二六)五月の知行宛行状では海士村七七二石余が旗本永井領。正保国絵図でも高七七二石余で、幕末まで同様。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数八〇で、旗本永井領。磯谷いそがや村とともに改革組合の寄場村。

海士村
あもうむら

[現在地名]福部村海士

細川ほそがわ村の南西に位置する。但馬往来に沿って集落が東西に細長く広がる。本村を挟み西に西土居にしどい、東に阿加多あがた(現在は県)の両支村がある(因幡志)。拝領高は三七五石余、本免は五ツ九分。藪役銀六匁四分余を課されており(藩史)、菅佐氏・吉村氏・近藤氏・須知氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によれば家数五三。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高四六九石余、竈数五二。

海士
あまはぎむら

[現在地名]西目町海士剥

西目川右岸、海岸に沿って位置する。北は本荘町(現本荘市)、東は薬師堂やくしどう(現本荘市)、南は西目村に接する。

元禄一一年(一六九八)の出羽国由理郡之内村高帳に「高無シ 薬師堂村之内海士剥村」とあり、新田村と思われる。享和二年(一八〇二)の「測量日記」に「厄剥村」とあり、家数七。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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