栗田村(読み)くりだむら

日本歴史地名大系 「栗田村」の解説

栗田村
くりだむら

[現在地名]三輪町栗田

上高場かみたかば村の北東にあり、目配めくばり(四〇五メートル)の南西麓から小石原こいしわら右岸にあたる。村内を草場くさば川が流れる。古代夜須やす郡栗田郷(和名抄)、中世栗田庄の遺称地。「続風土記」は枝村として森山もりやま村と当所とうしよ村をあげる。秋月藩初代藩主黒田長興の時代に森山村、のち当所村をそれぞれ分村したという(続風土記)。小早川時代の指出前之帳では栗田村の田一一〇町三反余(分米一千二三二石余)・畠三三町二反余(分大豆二一四石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高二千六二九石余、うち大豆三四八石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高二千七五八石余・反別二〇〇町一反余、家数一七〇・寺一・社七、人数九〇七(田圃志)

栗田村
くりたむら

[現在地名]長野市栗田

善光寺ぜんこうじ町の南南東にあり、東は千田せんだ村、西は中之御所なかのごしよ村、南は千田村・いち村、北は七瀬河原ななせかわら村と境する。北にふる川、南に計渇けかち川、中を前堰まえせぎがいずれも東南方向に流れ、水利に恵まれた所である。村名の初見は慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)で、「七百九拾弐石五斗七升七合 栗田村」とある。

古くは「和名抄」所載の芹田郷に属すと伝え、「吾妻鏡」治承四年(一一八〇)九月七日条に「栗田寺別当大法師範覚」とある栗田氏の本貫地で、嘉暦四年(一三二九)の諏訪社上社の大宮御造栄之目録(諏訪大社上社文書)に「玉垣五間 五町・栗田・今溝」とみえる。

栗田村
くりたむら

[現在地名]新宮町栗町くりまち

町屋まちや村の北に位置し、栗栖くりす川の上流域に立地する。西は角亀つのがめ村。揖西いつさい郡に属し、美作道が通る。領主の変遷は町屋村と同じ。慶長七年(一六〇二)由井助左衛門は姫路城主池田輝政から栗田村内一三八石など都合一千五〇〇石を与えられている(「唯武次郎家譜」鳥取県立博物館蔵)。慶長国絵図にも村名がみえる。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高一五〇石余、高一二四石余。

栗田村
くりだむら

[現在地名]加西市北条町栗田ほうじようちようくりだ

小谷こだに村の東に位置し、中播丘陵北部に立地する。古代は当地一帯は三重みえ里とよばれ、中世には酒見北条さかみほうじようと称された。文禄四年(一五九五)八月一七日の豊臣秀吉知行方目録(木下家文書)に栗田村二二五石とみえる。慶長国絵図にも村名が記載される。領主の変遷は市場いちば村と同じ。正保郷帳では田方二一一石余・畑方六一石余。元禄郷帳では高二七七石余。田安家御領知郷村高帳(田安徳川家文書)にはこの高のほかに新畑として一斗四升余がみえる。文政七年(一八二四)の年貢納米一〇九石余であったが、定免延期のため一升一合を増米された(「増米御請書」山下家文書)

栗田村
くりたむら

[現在地名]中山町栗田

現中山町の南東部、中山川に流入する栗田川が村の西部の階上はじかみ(八九八・六メートル)から流下してくる地域を占める。集落・耕地ともにこの谷に沿って分布している。浮穴うけな砥部とべ郷に属する村で、寛永一二年(一六三五)藩領の交換で松山藩領から大洲藩領となった、いわゆる「御替地おかえち」の一村である。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)浮穴郡の項に「栗田村 茅山有」、高一一九石六斗八升、うち田四八石九斗八升、畠七〇石七斗と記す。

栗田村
くりたむら

[現在地名]高遠町大字長藤おさふじ

藤沢ふじさわ川の中流の右岸に位し、北はだい村、南は四日市場よつかいちば村で、金沢道に沿った街村をなす。

村名の初見は正保四年(一六四七)の信濃国絵図高辻で「一高百弐拾弐石 栗田村」とある。寛永一五年(一六三八)の栗木田村縄打帳に「信州高遠領藤沢内中切栗木田村御縄打帳」とあり、また栗木田くりきだの初見は守矢満実書留の文明一四年(一四八二)八月七日の条に「栗木田藤沢城保科取候」とあり、藤沢氏のこもっていた栗木田城が保科一族のために攻め取られたとあるが、栗木田が栗田になった理由はつまびらかでない。

栗田村
くりたむら

[現在地名]秦荘町栗田

本持もともち村の北西方にあり、東はおき村。元亀二年(一五七一)一二月日の佐久間信盛宛の織田信長朱印状(吉田文書)に「参百石 栗田分」とある。慶長五年(一六〇〇)彦根藩領となり、慶長高辻帳に栗田村八七二石余とある。のち枝郷野々目ののめ村・長塚ながつか村が独立、元禄郷帳によれば栗田村五〇三石余、野々目村二五二石余、長塚村一一七石余。

栗田村
くりたむら

[現在地名]小浜市栗田

高塚たかつか村の北に位置し、東は山を隔てて太良庄たらのしよう村。西は国富くにとみ平野に面する。中世は国衙領栗田保に属した。正保郷帳によれば田方三一六石余・畠方三一石余であるが、天保郷帳では二八石余の増加がみられる。当村は次吉つぎよし村への出作があり、「懸り物并御用金等出シ目」をめぐる争論があって文久二年(一八六二)一一月和解済状が出されているが、出作高は四八石余であった(高橋家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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