枝川村(読み)えだかわむら

日本歴史地名大系 「枝川村」の解説

枝川村
えだかわむら

[現在地名]勝田市枝川

那珂川の北岸に位置し、東は堀口ほりぐち勝倉かつぐらの両村。弘安大田文に「枝河九丁六段」とあり、那珂東郡の一郷であった。文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)に「高六百十四石九斗九升 此内五十四石四斗一升 荒 定物成七十貫文 皆納 大山采女枝川」とあり、この時は佐竹義宣の蔵入地であった。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「枝川村」と記され、石高九〇五・〇〇九石で、ほかに新田分三六・七〇一石がある。「水府志料」によると戸数およそ一二九。

常陸大掾伝記」に「(前略)枝河、此レ等ハ馬場ノ名字也」とあり、鎌倉時代常陸大掾職を襲った馬場資幹の子時幹が地頭として土着し、枝川五郎を称しこの郷を支配したとされる。枝川氏系図(「勝田市史」所収)には江戸通房の子通弘は「枝川氏之祖彦四郎法名珊柄、枝川村住以地名為氏」とされ、通弘から三代後の重氏については「枝川播磨守又称江戸氏共、代々属シ江戸氏旗本タリ、野々上三十六騎旗頭也、天正十八年庚寅十二月佐竹義重之為没落」とある。

枝川村
えだがわむら

[現在地名]伊野町枝川

仁淀によど川の支流宇治うじ(天神川)の上流域に位置し、低地のため古来水害を受け、とくに宇治川の滞水に悩まされた。土佐郡に属し、「土佐州郡志」は「東西三十五町許南北四十町許、戸凡百三十五、其土赤黒、村西有城、西至佐川之大路」と記す。この「佐川之大路」とは佐川さかわ(現高岡郡佐川町)を通り伊予国松山へ至る松山街道である。

天正一七年(一五八九)朝倉庄地検帳に枝郷村とみえ、朝倉あさくら庄の枝郷が村名の由来と考えられる。同地検帳には「江」「池成」「池蓑」「外池アリ」「池ニ成残リ」などとあって、低湿地であったことを示している。

枝川村
えだがわむら

[現在地名]田舎館村枝川

浅瀬石あせいし川中流左岸にあり、北の浅瀬石川対岸は堂野前どうのまえ村、南東十二川原じゆうにかわら村、南は垂柳たれやなぎ村、西は八反田はつたんだ村に接する。

貞享元年(一六八四)の郷村帳に新田として高三一三・五石とある。同四年の検地帳によれば、垂柳村の支村とあり、村高一九九・三九六石、うち田方一七町二反六畝二三歩、一六九・〇六四石、畑方八町七畝五歩、三〇・三三二石とあり、ほかに川原五ヵ所七町一反九畝、空地六畝、永荒田一反五畝、稲荷社地一畝、屋敷六軒、百姓二七人とある。元禄三年(一六九〇)には田舎館組に属し、村位は上(平山日記)。享保年間(一七一六―三六)独立村となるという。明治初年の「新撰陸奥国誌」に家数四五、「口碑に元和中千葉相良と云るもの枝川六ケ村を併せ領せりと云伝ふ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報