松島炭鉱跡(読み)まつしまたんこうあと

日本歴史地名大系 「松島炭鉱跡」の解説

松島炭鉱跡
まつしまたんこうあと

[現在地名]大瀬戸町松島内郷

松島にあった炭鉱跡。大正一四年(一九二五)松島炭鉱株式会社が経営、盛期には五一万トンの採炭を示した。慶長年間(一五九六―一六一五)釜浦かまのうら漁民の五平太が漁中に大風が吹いてきたのでうちノ浦沖のびん島に避難して暖を取ったところ黒い石に燃えついたという。これが石炭の発見で、島中でみられたという(大瀬戸町略史)。天明元年(一七八一)時津とぎつ(現時津町)の万右衛門がくし(松島の属島)で採炭し、のち松島の内海喜惣右衛門、西泊にしどまりの平次郎も採掘にかかるものの、販売が軌道にのらずに停止となったが、周防陶ノ本山(現未詳)の船頭才助が採炭を始めたところおびただしい出炭があり、諸国の塩浜方に談合して積船数十艘を松島に回漕、莫大な利があったという。同二年松島で石炭の採掘が始まり、また松島の田川権左衛門が採掘、寛政二年(一七九〇)串島の炭坑を「内用方仕込」としたものの、出炭量はしだいに減少していった。文化四年(一八〇七)再興、同七年村請、同九年再び内用方仕込とするが、仕法替で銘々が引請けの施主として採掘を行い、同一〇年に瓶ノ島で採炭を開始、だんこふ浦などでも開坑があり、多大の出炭があった(九葉実録・大村郷村記)

文化一〇年八月、松島に逗留した伊能忠敬一行山内の石炭堀三ヵ所のほか所々で炭坑を見ているが、談合浦のたか崎に「石炭堀小家三軒」あり、「即今最中掘出す」と記される(伊能忠敬測量日記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報