東田原村(読み)ひがしたわらむら

日本歴史地名大系 「東田原村」の解説

東田原村
ひがしたわらむら

[現在地名]秦野市東田原

北は丹沢たんざわ山塊、南は曾屋そや村、東は寺山てらやま村・蓑毛みのげ村、西は西田原村に接する。大山道が西田原村から入り東端で北上して蓑毛村へ通ずる。小田原道が村の中ほどで大山道と南北に交差する。

観応元年(一三五〇)八月二〇日の小山秀親所領譲状(県史三)に「一所 相模国田原村地頭職」、年未詳の小山氏所領注文案(同書)にも嫡子所領分に「田原村」がみえる。応永七年(一四〇〇)六月一二日の関東管領上杉朝宗施行状写(同書)によると、大山寺護摩堂造営料所として「蓑毛・田原両郷」が寄進されている。小田原衆所領役帳に南条右京亮「四拾四貫六百五拾文 中郡東田原」とある。

東田原村
ひがしたわらむら

[現在地名]奈良市日笠ひがさ

此瀬このせ村東北にある。「続日本紀」神護景雲元年(七六七)一二月九日条に「従五位上阿倍朝臣三県為田原鋳銭長官」とある。「春日社記録」中臣祐定記嘉禎二年(一二三六)一〇月九日条に「東路 簀河路 誓多林路 田原路 福住路」とある。古くから日笠ともよばれたと思われ、田原東陵(光仁天皇陵)があり、高野新笠(光仁天皇妃)の居地とし、日笠は新笠にちなむという地名説話がある。

東田原村
ひがしたわらむら

[現在地名]名張市東田原

なか村の北西に位置する低丘陵地で、田地が広く展開する。村のほぼ中央を小波田おばた川が東西に流れ、西田原とは上野と名張を結ぶ街道をもって境とする。天喜四年(一〇五六)二月二三日の散位藤原実遠所領譲状案(東南院文書)に「上津田原村 東限山、南限山、西限井田橋、北限山」と記されるのが、東田原と推定される。現西田原と推定される下津田原しもつたわら村は名張郡に属し、上津田原村は伊賀郡に入っている。上下に分れた事情や、それが東西に変わった時期は定かでない。

東田原村
ひがしたわらむら

[現在地名]関市東田原

津保つぼ川左岸にあり、村内を蜂屋はちや川が東西に流れる平坦地の村。加茂郡に属し、西は西田原村。「和名抄」にみえる賀茂郡井門いと郷の一部とする説がある(濃飛両国通史)。貞和四年(一三四八)五月二九日の光厳上皇院宣(水無瀬神宮文書)に「美濃国東田原郷」とみえる。後鳥羽院御影堂の護摩領所とされており、東田原郷は鎌倉中期以降に水無瀬みなせ神宮(現大阪府三島郡島本町)領となったと思われる。以後、正平七年(一三五二)四月七日の後村上天皇綸旨、永和三年(一三七七)九月三日の後円融天皇綸旨(ともに同文書)で同神宮の知行が認められている。慶長郷帳では村高六四七石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では西尾嘉教(揖斐藩)領五五二石余・幕府領九四石余の二給であるが、同九年の揖斐藩廃藩によって全村幕府領となり、幕末に至る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報