田原東陵(読み)たわらひがしりよう

日本歴史地名大系 「田原東陵」の解説

田原東陵
たわらひがしりよう

[現在地名]奈良市日笠町

日笠ひがさ町北方にあり、俗に「王墓」「オウノツカ」という。光仁天皇陵とされ、「延喜式」(諸陵寮)に「田原東陵」として「平城宮御宇天宗高紹天皇、在大和国添上郡、兆域東西八町、南北九町、守戸五烟」とある。施基親王(春日宮天皇)田原西陵と区別して後田原山陵ともいう。

光仁天皇は施基親王の皇子で、天応元年(七八一)一二月二三日没、翌年広岡山陵に葬られたが、延暦五年(七八六)に田原東陵に改葬された(続日本紀)。広岡山陵は、現在当陵北方の京都府との境に広岡ひろおか地名があり、法蓮ほうれん町の古名を広岡というがその位置は定かでない。「日本後紀」延暦二四年七月二七日条に「献唐国物于山科後田原崇道天皇三陵」とあり、「三代実録」天安二年(八五八)一二月九日条に「詔定十陵四墓可年終荷前之幣(中略)天宗高紹天皇後田原山陵在大和国添上郡」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報