蓑毛村(読み)みのげむら

日本歴史地名大系 「蓑毛村」の解説

蓑毛村
みのげむら

[現在地名]秦野市蓑毛

北側を大山丹沢たんざわ山塊などに囲まれた山付の村。富士道が南方東田原ひがしたわら村から、小田原道が南方寺山てらやま村から入り村内で合流して大山へ向かい、山中で再び石尊せきそん道と不動尊ふどうそん道に分れ、分岐点に石尊宮西口一ノ木戸があった。東は坂本さかもと(現伊勢原市)、西は小蓑毛こみのげ・寺山・東田原・西田原五ヵ村入会の西にし山、南は寺山村に接する。大山参詣の西の玄関口のため西坂本とも称し、大山への道に沿って御師集落があった。

「吾妻鏡」養和元年(一一八一)正月六日条に、工藤景光が「相模国蓑毛辺」で平井紀六を捕らえたとある。この紀六は前年八月に、石橋山合戦に敗れ逃れる途中の北条宗時を早川はやかわ(現小田原市)で殺害した人物である。「扶桑禅林僧宝伝」に「所以毛山教院之古寺彼樹菴、衆漸三百余員也」とみえ塩山えんざん(現山梨県塩山市)向嶽こうがく寺開山抜遂得勝が三年間当地に山居したと伝える。応永七年(一四〇〇)六月一二日の関東管領上杉朝宗施行状写(県史三)では「蓑毛・田原両郷」とみえ、大山寺護摩堂造営料所として寄進されている。

蓑毛村
みのもむら

[現在地名]相良村柳瀬やなせ 蓑毛

川辺かわべ川下流西岸に位置し、北は深水ふかみ村、東は木上きのえ(現錦町)、南は梁瀬やなせ村、西はおお(現人吉市)と接する。慶長国絵図には「ミのも村」とみえ、一〇五石余とされる。寛永一一年(一六三四)郷村高辻帳では本田高一四五石余・新田畑高八八石三斗余とある。同一八年の検地帳によると上田六町六反三畝余・中田四町四反五畝余・下田五町七反四畝余、上畑三町七反四畝余・中畑一町七反七畝余・下畑三町六反余・野畑六畝余・山畑なし、屋敷六反余、合計二六町六反八畝余、分米二五〇石三斗余とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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