東浜町(読み)ひがしはまちよう

日本歴史地名大系 「東浜町」の解説

東浜町
ひがしはまちよう

[現在地名]高松市東浜町・城東町じようとうちよう一―二丁目

高松城の東、高松藩商港東浜港の東岸の港町。西はとおり町一丁目、東は新材木しんざいもく町に挟まれ、西から東浜中町、東浜東町と南北に細長く並び、北の東浜新地と併せて東浜町とよばれる。東浜新地の北は新湊しんみなと町。南はもと当町の一部であった井口いぐち(天保一五年城下図)。生駒氏時代屋敷割図には「東かこ町」とあり、享保年間(一七一六―三六)城下図は「東浜」と記し、東浜中町・同東町の南半部を「材木町」「井口屋町」としている。寛延三年(一七五〇)の東浜町切支丹宗門改帳(穆公事蹟)に総人数九六七(男五三一・女四三六)、家数三〇九(持家一五五・借家一五四)、うち商家二九、町年寄一人・組頭一二人とあり、商人が移住し、人口が密集して、天明年間(一七八一―八九)までに「東浜新地」が築造され、東浜中町・同東町の通称ができたとみられる。

東浜町
ひがしはまのまち

[現在地名]長崎市浜町はままち

西浜町南東中島なかしま川左岸にある長崎そと町の一ヵ町で、船手に属した。町並はおよそ南北に形成され、町内を鹿解ししとき川が流れる。はじめ浜町のうちで、正保四年(一六四七)の外町箇所数帳(柏原家文書)に浜町として箇所数九三。寛文三年(一六六三)大火で三九八間余・家数八三を焼失(寛宝日記)。同一二年大町の分割策に伴い東浜町・西浜町に分立。同年の間数二四七間・実箇所数四九・諸役御免箇所三(長崎県史)

東浜町
ひがしはまちよう

[現在地名]函館市末広町すえひろちよう

中浜なかはま町や西浜町と同様に近世末から明治初年にかけて、弁天崎べんてんさき台場から地蔵じぞう町までの海浜部を埋立てた地に成立した町の一つで、当地内澗うちま町一―二丁目の地先にあたった。明治五年(一八七二)二月に一町として公認され(同年「御達留」市立函館図書館蔵、「事業報告」第一編)、同九年の現住戸口は二九戸・一〇二人(函館支庁管内村町別戸口表)。同一四年七月の区画整理で堀江ほりえ町を編入(「事業報告」第一編)

東浜町
ひがしはままち

[現在地名]敦賀市蓬莱ほうらい

西浜町の東に位置する。「敦賀志」は、慶長二年(一五九七)に町立し、それまで浜之町と称していた西隣の町を西浜町とよび、当町を東浜町としたとする。西浜町に連続して問屋町を形成し、ほん町といわれた。寛文三年(一六六三)の家数六三、うち家持五四・貸屋九(寛文雑記)、享保一一年(一七二六)の家数五八(指掌録)。天和二年(一六八二)には船道具屋・箒屋・紅屋・作り花屋・刻煙草屋三軒があった(遠目鏡)

東浜町
ひがしはままち

[現在地名]高砂市高砂町東浜町

高砂町方二八町の一つ。元禄期(一六八八―一七〇四)の高砂町図(船津家蔵)によると、町場の東端、高砂川沿いに北は高瀬たかせ町、南は材木ざいもく町までの南北の町並で、船着場があり問屋の蔵が建並んでいた。安永二年(一七七三)の棟数一二・竈数一三・店借九、人数五五、うち田地持五(「高砂町方明細帳写」船津家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報