末吉村(読み)しーしむら

日本歴史地名大系 「末吉村」の解説

末吉村
しーしむら

[現在地名]那覇市首里末吉町しゆりすえよしちよう一―四丁目・首里大名町しゆりおおなちよう一―三丁目

西原にしばる間切の西端部に位置し、北は浦添うらしー間切沢岻たくし村・経塚ちよーじか(現浦添市)、南は真和志まーじ間切真嘉比まかび村、東は首里および平良てーら村に接し、村中南部を安謝あじや川が西流する。村の北東部は屋取の大名うふなー。浦添から首里に向かう道が通っており、旅の安全を願って謡われていたヤラシイグワイナ(クェーナ)に「平良ふな」(平良・大名)と「あだにが」(安谷川)がみえる。浦添を経て首里に上る途中の地名として謡われたもの。なお万暦二五年(一五九七)建立の浦添城の前の碑(表)にも「たひらおほな」が記される。

末吉村
すえよしむら

[現在地名]君津市末吉

三田さんだ村の南、小櫃おびつ川支流御腹おはら川の谷口に位置する。東は長谷川はせがわ村を経て谷奥の川谷かわやつ村へ通じ、集落の西側を久留里くるり道が通る。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高六六五石。元禄郷帳では高六三四石余、天保郷帳・旧高旧領取調帳では高六九一石余。寛文四年(一六六四)には久留里藩領で(寛文朱印留)、以降の領主の変遷は山本やまもと村と同じ。慶安元年(一六四八)市場いちば正源しようげん寺に当村内で一〇石の朱印寺領が与えられた(正源寺文書)。旧高旧領取調帳も同高であるが、天保一一年(一八四〇)望陀郡戸口録には当村正源寺領高二石・市場村同寺領高一八石とある。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳によると家数八九。

末吉村
すえよしむら

[現在地名]志賀町末吉

大念寺新だいねんじしん村の東、米町こんまち川と於古おこ川の合流地に、両川に挟まれたかたちで立地。北東部は丘陵地で、丘陵先端は末吉城跡のあるじよう山。おもに村の西に平地が開ける。慶長元年(一五九六)とみられる閏七月一二日の本願寺御印書(西来寺文書)などに「堀松スヱシ村」「堀松末吉村」とみえ、中世堀松ほりまつ庄の内で、摂津石山本願寺に志納銭を進上していたことがわかる。

末吉村
すえよしむら

[現在地名]大山町末吉

国信くにのぶ村の南西にある。北西は日本海に臨み、北東から南西に伯耆街道が通る。地名は正徳五年(一七一五)八幡宮鎮座本記(国信神社文書)によると、国山くにやま八幡(現国信神社)永世の神威をたたえたものという。元亀二年(一五七一)と推定される八月一四日付の毛利輝元書状(閥閲録)に「伯州末石之城」とみえる。同城は現国道九号が貫通する海に面した台地上にあったとされる(大山町誌)

末吉村
すえよしむら

[現在地名]柏村玉水たまみず

東は玉水村、南は沖萢おきやち村、田圃を隔てて北は蘆沼あしぬま(現木造町)、西は蓮沼はすぬま(現木造町)

天和三年(一六八三)の広須御新田所図に村名がみえる。開村は寛文年間(一六六一―七三)と推定され(柏村郷土史)、享保一二年(一七二七)には広須組に属し、広須通二三ヵ村の一つで村位は下と定められた(平山日記)。元文元年(一七三六)検地帳によれば、田畑屋敷合せて四〇町六反二八歩、村高は二七五・四五五石であった。うち田方は三八町九反三畝一五歩で二七〇・七八六石、上田から下々田まで設定され、下田が一五町五反三畝一三歩で一〇八・七四石、下々田一三町五反九畝一歩で六七・九五一石とあり、畑方は上畑がなく中・下・下々畑で、屋敷地を含めて一町六反七畝一三歩、四・六六九石とある。

末吉村
すえよしむら

[現在地名]八丈町末吉

中之郷なかのごうの北東、ひがし山の東麓に位置する。明応七年(一四九八)以来中断はあるものの八丈島の地役人を勤めた長戸路氏は当地中央部の高台に居を構えていた。安永三年(一七七四)の伊豆国附島々様子大概書によると、反別は田五町一反余・畑二一町九反余、戸口は九一軒・六七六人、ほかに流人一三人、牛九八。長戸路氏の屋敷は中世の土豪館の風格を備え、敷地内には島内最大の一二脚を有する高倉(都指定文化財)があり、これは郷倉の役も兼ねていた。

末吉村
すえよしむら

[現在地名]三田市末吉

四方を河原かわら村に囲まれた新田村。末吉川上流の広い谷間の緩傾斜段丘に立地する。慶長国絵図にみえる「中村」に比定され、河原村・フキ村と合せて高四六五石余。慶長元年(一五九六)河原村の本郷の北東が開発され、高五五石余の末吉新田が成立したという(「御領地雑事記」森本家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報