木部村(読み)きべむら

日本歴史地名大系 「木部村」の解説

木部村
きべむら

[現在地名]益田市木部町

沖田おきた川河口の海浜地帯で、北は西平原にしひらばら村、南東は赤雁あかがり村、南は津田つだ村。海岸沿いに木部・大谷おおたに大浜おおはまと天然の良港があり、ほとんどが磯で内陸は木部の集落付近以外は起伏に富んだ丘が続く。地名は古代紀氏の部民による移住開拓によるという(島根県史)。天和年間(一六八一―八四)に拡幅された街道は津田村より釜口かまぐちに出て、釜出かまでから三本松さんぼんまつ峠を登り、土田つちだ村の笠の谷かさのたにヒジリに出る。ここには藩主巡回の時の休み場として駕籠休かごやすめがあった。天正一二年(一五八四)一〇月二日、しんちの局が木部郷内の田三〇〇前一反を妙義みようぎ寺に寄進し、益田藤兼・元祥父子がこれに証判を与えている(妙義寺文書)。江戸時代の支配の変遷は益田村と同じ。元和五年(一六一九)の古田領郷帳では高二〇五石余、年貢は田方九五石余・畑方二二石余。正保四年(一六四七)の古田領郷帳では高二〇五石余、免六ツ。元和五年の古田領小物成帳では猟船役銀五匁・大船猟船役銀七匁五分がある。

木部村
きべむら

[現在地名]高崎市木部町

からす川に向かって北東流するかぶら川下流の左岸に位置し、鏑川の対岸の森新田もりしんでん(現藤岡市)に接して飛地がある。北は阿久津あくつ村、西は山名やまな村。寺東てらひがし田端たばたで古墳時代鬼高期以降の竪穴住居跡群・古墳、奈良・平安時代の集落、中世寺院、城郭遺構などが検出された。永禄九年(一五六六)武田信玄箕輪みのわ(現群馬郡箕郷町)攻めの際に、「木辺」に陣が布かれている(同年一二月九日付甘利昌忠書状写「新編会津風土記」所収)。同一〇年三月七日付長年寺受連覚書(長年寺文書)には「木部」とみえる。寛永二年(一六二五)緑野みどの郡「木部郷之内」二〇〇石が久保松雲に与えられている(記録御用所本古文書)。寛文郷帳では田方六三四石余・畑方三八二石余。五四八石余が幕府領、二五〇石が旗本久保吉右衛門領、二一八石余が同志賀金五郎領。

木部村
きべむら

[現在地名]熊本市御幸木部みゆききべ

江津えづ湖から流れ出る加勢かせ川中流右岸に位置し、東は御船みふね往還、西は中木部なかきべ村・下木部しもきべ村・小原おばる村、南は加勢川である。天養二年(一一四五)と思われる頃、緑川下流域木原きはら(現下益城郡富合町)を本拠とし、当時反国衙勢力の中心をなしていた木原広実は、木部保内の田堵市丸の作田の所当官物府米六〇〇余束を奪い取ったと保司に訴えられている(欠年「肥後国某訴状写」高野山文書)。田堵市丸は木部保司の仮名であるかもしれない。承元三年(一二〇九)一二月一一日藤原(大友)能直は「神蔵庄近部鳥栖」の地頭下司職に補任されており(「将軍家政所下文案」詫摩文書)、近部(木部)は鎌倉時代には神蔵かみくら庄の一部に含まれるようになった。貞応三年(一二二四)四月二六日の関東下知状案(同文書)によれば、「木部鳥栖」などの地頭下司職が能直から次男詫磨能秀に譲られている。

木部村
きべむら

[現在地名]宇佐市木部

五十石ごじつこく川を隔てて佐野さの村の西に位置し、南は四日市丘陵の山地を挟んで今仁いまに村、南西は清水しみず村。水利に乏しい所であり、丸尾まるお池・宇土うど池・植野うえの池・かみ池・なか池・ほん池など多くの用水溜池があった。岐部とも記し、建武元年(一三三四)一二月八日の弥勒寺別当神朝等和与状案(小坂坊文書)では、比丘尼恵宗分のうちに「岐部薗畠七杖」とみえる。近世の領主の変遷は時枝ときえだ村に同じ。小倉藩元和人畜改帳では高五三八石余、人数八一、百姓九(うち庄屋五)・名子二・鍛冶一・牢人一・山伏二、牛九・馬五。延享三年(一七四六)の高畝寺社人高帳(中津市立図書館蔵)によると実高五一四石余(拝領高は三七〇石余)で、反別は四九町六反余、家数五一・人数二四二、牛馬一七。

木部村
きべむら

[現在地名]小川町木部

靱負ゆきえ村の南西にあり、南東の秩父郡安戸やすど(現東秩父村)・比企郡笠原かさはら村との境にかんくら(三四四メートル)がそびえる。男衾おぶすま郡のうちで玉川たまがわ領に属し、竹沢たけざわ六村の一つ(風土記稿)。延宝元年(一六七三)の竹沢村水帳によれば、木部分は高一四二石余、反別は田四町四反余・畑二四町八反余・屋敷一町余であった(小川町史)元禄郷帳には竹沢を冠して村名が載り、高一五四石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本大島領。以降同領のままで幕末に至ったと思われる(「風土記稿」「郡村誌」など)。文化一四年(一八一七)には家数六〇・人数二七〇、農間稼として二五軒が紙漉を営み、紙舟役銭一貫五〇〇文・紙売出役銭二〇文を納めていた(「村書之控」横川家文書)

木部村
きのべむら

[現在地名]池田市木部きべ

池田村の北にあり、ほそ郷の一村。村の東部は五月さつき山の山腹にあたり、西部に耕地が広がる。西側を猪名いな川が南流し、村の西辺で北西辺を南西流してきた久安寺きゆうあんじ川を合流する。池田村より北上してきた能勢のせ街道は村の西部ほぼ中央で余野よの(摂丹街道)を分岐。集落は能勢街道沿いに点在、とくに池田村に近い地は木部新宅きのべしんたくと称し、町場化していた。

木部村
きべむら

[現在地名]美里町木部

松久まつひさ丘陵から北部へのなだらかな北斜面に位置し、丘陵に接して集落が散在する。東から南にかけては甘粕あまがす村、北は古郡ふるこおり村。猪俣党猪俣時範(猪俣氏の祖時資の子)の孫行兼は木部次郎を称して木部氏の祖となり、木部氏館に居住したと伝えられる。しかし猪俣党系図(諸家系図纂)によると、行兼は木里二郎と称し、かれの兄弟家高の孫広兼が木部二郎を名乗っている。元亀元年(一五七〇)五月五日には、鉢形はちがた(現寄居町)城主北条氏邦は高柳源左衛門に「木部村」において寄居に取立てた屋敷を一円不入として安堵し、他者の介入を禁止している(「北条氏邦印判状」木部文書)

木部村
きべむら

[現在地名]中主町木部

虫生むしゆう村の西、家棟やなむね川と野洲川の間の平地に立地。元応元年(一三一九)の「日吉社領注進記」に野洲北郡正楽名神田三町三反のうちとして「木部郷」とみえる。元亀三年(一五七二)三月二一日の金森かねがもり(現守山市)の一向一揆に参加しないことを誓約した起請文に「木部惣代」がみえる(水木文書)。天正一九年(一五九一)四月の徳川家康知行目録写(大谷文書)に「木部」とみえ、高一千三一石余。寛永石高帳・正保郷帳では高一千四五石余、うち幕府領三二二石余・旗本上田領七〇三石余・錦織きんしよく寺領二〇石。上田領・錦織寺領は幕末に至る。元禄郷帳では幕府領が旗本斎藤領(高三〇二石余)となり、以降幕末まで変わらない。

木部村
きべむら

[現在地名]茨城町木部

涸沼ひぬま川の右岸に位置し、東は上飯沼かみいいぬま村。慶長七年(一六〇二)秋田氏領となったことを示す御知行之覚(秋田家文書)に、き辺村五八六・八石とある。江戸時代は旗本領で、元禄郷帳に「木部村」とみえる。幕末は前島氏・天野氏・青沼氏の相給で各一五一・四石余(各村旧高簿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報