日高国(読み)ヒダカノクニ

デジタル大辞泉 「日高国」の意味・読み・例文・類語

ひだか‐の‐くに【日高国】

日高

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日本歴史地名大系 「日高国」の解説

日高国
ひだかのくに

明治二年(一八六九)八月一五日に設置され、沙流さる新冠にいかつぷ静内しずない三石みついし浦河うらかわ様似さまに幌泉ほろいずみの七郡からなる(公文録)国名は「日本書紀」景行天皇二七年二月一二日条に「東の夷の中に、日高見国あり。其国人(中略)是を総べて蝦夷と曰ふ」とみえることから、松浦武四郎がこの日高見国に当地をあてて日高と上申したことによる(「国名之儀ニ付申上候書付」松浦家文書)。北海道の南部に位置し、東から北東は日高山脈の国境稜線を境に十勝国に、北西から北は胆振国に、北端のごく一部で石狩国に接する。南西と南東は太平洋に臨み、南に襟裳えりも岬が突き出している。近世には東蝦夷地(下蝦夷地)のうちで、多くのアイヌが居住しており、「津軽一統志」の「松前より下狄地所付」では現在の門別町域にあたる「さる」(サル)、「もんへつ」(モンベツ)以下、のちの当国域で二〇ヵ所以上が書上げられている。シャクシャインの戦で著名なシャクシャインはシビチャリ(現静内町)を、オニビシはハイ(波恵、現門別町)を拠点としていた。一七九九年(寛政一一年)に東蝦夷地が上知となると、当地はサル、ニイカップシツナイミツイシウラカワシャマニホロイツミの七場所に編成された。「東蝦夷地場所大概書」によれば、この七場所を合せて、アイヌの総家数六二六・総人数二千八六七であった(ただしウラカワ場所の人数は男女別の内訳と若干の誤差がある)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報