日華平和条約(読み)にっかへいわじょうやく

改訂新版 世界大百科事典 「日華平和条約」の意味・わかりやすい解説

日華平和条約 (にっかへいわじょうやく)

1952年に日本中華民国の間で結ばれた平和条約。正式名称は〈日本国と中華民国との間の平和条約〉で,4月28日台北調印され,8月5日発効した。サンフランシスコ講和会議の準備にあたりアメリカイギリス両国は中国代表権が中華民国政府中華人民共和国政府それぞれにあると判断,1951年6月のロンドン会談でサンフランシスコ講和会議へはいずれも招待せず,会議後日中の2国間で平和条約を締結させ,その際いずれの政府を選ぶかは日本政府の判断にゆだねるという妥協を行った。平和条約審議中の国会野党はこぞって北京政府と平和条約を結ぶべきであると主張し,このなかで吉田茂首相は台北政府を地方政権にすぎないと発言し,台北政府との平和条約締結の意思を表明する一方,北京政府を無視しない態度を示した。日本の北京政府への接近を恐れたアメリカはダレス特使を訪日させ,台北政府との条約締結を約した51年12月24日付吉田書簡を公表させた。52年2月18日から台北で平和条約交渉が開始され,賠償放棄問題での一時中断をはさみ,サンフランシスコ講和条約発効の直前に調印された。

 条約は前文と14条からなり,議定書交換公文,〈同意された議事録〉が付属している。これによって日本と中華民国との戦争状態の終了(第1条),サンフランシスコ講和条約での日本の台湾放棄条項を承認し(第2条),台北政府の賠償請求権放棄(議定書)が取り決められ,あわせて民間航空や拿捕(だほ)漁船についても取り決められた。条約の適用範囲地域は台北政府が現に統治し,および今後統治下に入るすべての領域とされ,北京政府の統治する地域の戦争状態の終了は確認されず,また台湾の最終帰属問題,財産処理と請求権についても明確な取決めを欠いた。1972年9月29日の日中共同声明に際し,大平正芳外相が〈日華平和条約は終了〉したとの政府見解を談話として発表,かつ日本と台北政府との国交が断絶したので同条約の終了は現実化した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日華平和条約」の意味・わかりやすい解説

日華平和条約
にっかへいわじょうやく
Peace Treaty between Japan and the Republic of China

第2次世界大戦後の 1952年4月 28日,日本と台湾の中華民国国民政府との間で締結された講和条約。日本と中華民国との間の戦争状態終了,正常関係再開などを取決めた。タイペイ (台北) で調印。中国を正統に代表する政府は台北政府か北京政府かをめぐるイギリス,アメリカの意見不一致により,中国は 51年9月のサンフランシスコ講和会議に招請されなかった。その後日本はアメリカの要望をいれて,同年 12月 24日の J.ダレスあて「吉田書簡」で国民政府との間に平和条約締結の用意がある旨を表明,翌 52年4月 28日,つまり講和条約発効の日に同条約に署名した (1952.8.5.発効) 。中華人民共和国は,日中国交回復の前提条件の一つとしてこの条約の廃棄を強く主張した。 72年9月 29日署名された日中共同声明により中華人民共和国との国交が樹立され,日華平和条約は存続の意義を失った。

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百科事典マイペディア 「日華平和条約」の意味・わかりやすい解説

日華平和条約【にっかへいわじょうやく】

日本と中華民国との間で第2次大戦の戦争状態を終了させた条約。中国はサンフランシスコ会議に招請されなかったが,サンフランシスコ講和条約を原則として1952年台北で調印。国民政府の支配下にある台湾を適用範囲として結ばれ,かつ将来国民政府の支配下に入る領域をも適用範囲と定めた。その結果,日中間の全面的国交回復が阻害されたが,1972年日本が中華人民共和国と国交を回復するとともにこの条約は失効,国民政府もまた対日国交断絶を宣した。
→関連項目日中共同声明日本

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「日華平和条約」の解説

日華平和条約
にっかへいわじょうやく

1952年(昭和27)4月28日調印,同年8月5日発効した日本と中華民国国民政府との講和条約。サンフランシスコ講和会議に中国代表は招待されなかったが,1951年12月の吉田書簡で日本は国民政府との講和希望を表明,条約締結に至った。日華間の戦争状態の終結,台湾・澎湖(ほうこ)島などに対する領土権の放棄,日本財産の放棄と台湾の賠償請求権の放棄などを規定。条約の適用範囲は国民政府の支配下にある地域に限定されたが,日本と中華人民共和国との関係に問題を残した。72年の日中国交正常化の際,大平正芳外相が失効を宣言した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「日華平和条約」の解説

日華平和条約
にっかへいわじょうやく

第二次世界大戦後,日本と中華民国(台湾政府)との間で結ばれた講和条約
1952年4月28日調印。中国の代表政権について,イギリスとアメリカの意見が一致せず,サンフランシスコ講和会議に中国は招請されなかった。アメリカは国民政府との講和を希望し,吉田茂内閣は全権河田烈を台北に派遣し調印した。'72年日中共同声明を出した直後,政府はこの条約の消滅を明言した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「日華平和条約」の解説

日華平和条約
にっかへいわじょうやく

1952年4月28日に調印した,日本と中華民国(台湾政権)との間の講和条約
サンフランシスコ講和会議に参加できなかった中国との講和条約を進めるため,日本の吉田内閣は中華人民共和国ではなく,台湾の中華民国と交渉を進めた。戦争状態の終結,台湾・澎湖諸島の放棄,中華民国側からの賠償請求権の放棄などを規定。1972年の日中国交正常化によって失効した。

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世界大百科事典(旧版)内の日華平和条約の言及

【平和条約】より

…その後,インドとの間には1952年に日印平和条約が結ばれた。中国については,はじめ台湾との間に1952年に日華平和条約が結ばれたが,その効力は中華人民共和国には及ばず,72年の日中共同声明によって,後者との不正常な状態が終了するとともに,日華平和条約は効力を失い,78年には日中平和友好条約が結ばれた。ソ連との間の戦争状態は,1956年の日ソ共同宣言によって終了したが,この宣言で予定されている平和条約は,まだ結ばれておらず,北方領土問題が日ソ間の対立点となっている。…

※「日華平和条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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