新潟(市)(読み)にいがた

日本大百科全書(ニッポニカ) 「新潟(市)」の意味・わかりやすい解説

新潟(市)
にいがた

新潟県の中央部、日本海に面して位置し、信濃(しなの)川と阿賀野(あがの)川が合流する河口に発達した港湾商業都市。県庁所在地。

 1889年(明治22)人口4万4000人で市制施行。1914年(大正3)沼垂(ぬったり)町合併。1943年(昭和18)大形、石山、鳥屋野(とやの)村編入。1954年松ヶ崎浜(まつがさきはま)、南浜、濁川(にごりかわ)、坂井輪(さかいわ)村編入。1957年大江山、曽野木(そのぎ)、両川(りょうかわ)村編入。1960年内野(うちの)町、1961年赤塚、中野小屋村編入。1995年(平成7)12月には1994年の地方自治法の改正による人口30万人以上、面積100平方キロメートル以上などの都市要件に該当し、1996年(平成8)政令指定都市に準じる「中核市」に指定された。岐阜や富山などとともに第一次指定を受けた全国12都市の一つであった。2001年黒埼町(くろさきまち)編入。2005年に、新津市(にいつし)、白根市(しろねし)、豊栄市(とよさかし)、小須戸町(こすどまち)、横越町(よこごしまち)、亀田町(かめだまち)、岩室村(いわむろむら)、西川町(にしかわまち)、味方村(あじかたむら)、潟東村(かたひがしむら)、月潟村(つきがたむら)、中之口村(なかのくちむら)を編入、同年中に巻(まき)町を編入。2007年、政令指定都市に移行、北、東(ひがし)、中央、江南(こうなん)、秋葉(あきは)、南、西、西蒲(にしかん)の8区がつくられた。日本海側では本州最大、福岡市に次ぐ高層ビルの集中する中心街を形成している。古くは古志(こし)の国の北端にあたり、旧佐渡国(さどのくに)(佐渡島)と旧越後国(えちごのくに)で構成される。信濃川は全国一の長流であり、阿賀野川は10番目の長さでともに水量豊富であり、洪水の被害もあったが、広い沖積平野と豊かな物産に恵まれて、発展の基礎を得た。とくに西廻(にしまわり)航路が開発されてから越後の内陸および福島県の米や物資の集散地として発達した。北陸、中部、関東、東北の各経済社会圏と諸交通路で結ばれ、環日本海国際社会の結節点として将来の発展が期待されている。面積726.27平方キロメートル。人口78万9275(2020)。

[高津斌彰]

自然

気温・降水量・日照などの特徴から北陸山陰型気候区に属する。平均気温が各月とも2℃以上で最寒月の1月が2.1℃で、最暖月の8月が26.2℃である。年間降雨量は全国の平均と同様1700~1800ミリメートルであるが、最多降水月が11、12、1月の冬季にあることが特徴である。しかし平滑な地形と風速・風向などの影響もあって、県内の上越(じょうえつ)市や内陸の長岡(ながおか)市とは異なり降雪量も根雪も少ない。したがって特別の融雪施設はなく、除雪トラックや除雪グレーダー(雪かき車)だけである。冬は曇天が多いことから、夜間は熱放散が少なく水道管が凍りつくことはまれである。年間日照時間は1712時間で約40%と少ない。12月は72.8時間、1月34.1時間、2月が72.8時間である。降雪日数は12月が12日間、1月が25日間、2月が19日間、3月が12日間ほどである。

 地形は砂丘と砂丘間低地、自然堤防、旧河川敷からなっている。砂丘列は南から3列が認められ、亀田砂丘列、鳥屋野(とやの)砂丘列、新潟砂丘列とよばれている。とくに砂丘は基盤岩の上にのったものではなく、完新世の約1万年の間に1500メートルも堆積(たいせき)したものである。この沖積層の基底から地下120メートルの間に、最終氷期の扇状地性堆積物からなるG1層からG7層まで厚く砂礫(されき)層が積もっていることが明らかにされている。比較的浅層には水溶性ガスがあり、第二次世界大戦前は日本石油、戦後は新潟交通、日本瓦斯(がす)化学によって資源として開発されたが、その後の地盤沈下の激化によって、ゼロメートル地帯が拡大したことから、くみ上げ規制されている。新潟の生活の主舞台は砂丘や自然堤防上から始まり、東西方向に長く集落を形成したが、1952年ごろからの高度経済成長とともに、南部および東西の砂丘間低地への住宅の無秩序なスプロール化が広範に進展した。東西新潟を二分する信濃川河口には、流路と河口が比較的早く固定したことから、みごとなカスプ(尖角岬(せんかくみさき))を形成したが、遅くまで一定の河口をもたなかった阿賀野川は平滑な河口である。江戸時代末期の新発田(しばた)藩による沼垂(ぬったり)湊の保全と流路確保のための人工的な掘削を契機として現在の河口が生まれた。したがって市域全体に鳥屋野潟のような沼沢地や低湿地が広がり、江戸時代には新潟湊(みなと)と沼垂湊との流路の変化によって流された港町の復興訴訟などにみるごとく、河川流路が変わったり、洪水にみまわれたりすることが多かった。

[高津斌彰]

歴史

大江山・赤塚地区には縄文遺跡、西区中野小屋(なかのごや)地区の曽和(そわ)の六地山(ろくじやま)遺跡には弥生(やよい)時代後期(3世紀)、新潟砂丘列には古墳時代の製塩遺跡や鎌倉期の遺跡が発見されており、人間の営みは十分に古くから展開されている。平安時代に描かれた寛治(かんじ)・康平(こうへい)絵図のごとく越後平野を大きな内海とみることは誤りである。7世紀なかばの647年(大化3)には渟足柵(ぬたりのき)が蝦夷(えぞ)に備えて設けられ、信濃川右岸の沼垂町の起源は古い。本格的な発展は長岡藩の外港として信濃川左岸に新潟町が新たに形成された17世紀の初期以降からである。長岡藩主堀直竒(なおより)の町と港整備による都市計画の実施と「諸役用捨(しょえきようしゃ)」をはじめとする商人優遇策によって、全国の商人が集められて町が発展した。続いて河村瑞賢(ずいけん)による西廻航路の主要港に整備されると、さらに急発展して、17世紀末の1697年(元禄10)には、年間入港船3500艘(そう)で、出入りする貨物の総額は46万両に上り、1710年(宝永7)にはさらに増えて56万両を記録している。幕末に近い1843年(天保14)には、現在の密輸や脱税にあたる抜け荷事件をきっかけとして、新潟湊は幕府が直轄支配し港湾利益を直接に獲得することになった。1858年(安政5)には安政の開港5港の一つに含まれたが、近代新潟発展の契機は新しい築港、鉄道、港湾、道路の整備が進んだ明治末~昭和初期であり、第二次世界大戦前は北洋船および大陸との日本海航路、戦後は低廉な電気と石油・天然ガスを原料とする鉄・アルミ・石油・化学・肥料などの臨海重化学工業地帯の集積が進んだ。1963年(昭和38)の新産業都市指定も受けたが、産業構造の大きな変化もあって、東工業港建設の順調な発展が進まず、その後の工業化は流通業・倉庫業・運輸業・建設業・サービス業、エネルギー基地の立地および一部の機械工業立地などへ大きくさま変わりすることになった。

 1897年(明治30)5万1000人、1907年6万1000人、1914年(大正3)9万1000人、1925年10万9000人、1935年(昭和10)13万4000人、1945年17万4000人、1955年26万1000人、1965年35万6000人、1975年42万3000人、1985年47万6000人、1995年(平成7)49万5000人、2000年50万1000人、2005年(平成17)81万4000人と人口は増加し続けてきたが、その後は2010年81万2000人、2015年81万人と減少傾向にある。第二次世界大戦前の人口増加率は低かったが、とくに戦後の復興期と昭和30年代の高度経済成長期に人口増がみられた。昭和40年代からは増加率が減少してきており、2010年調査分より人口は減少に転じた。1975年以降郊外への人口や企業の移転がみられて、市内の人口増加より郊外化とよばれる周辺都市人口の増加が多くなっている。

[高津斌彰]

交通

上越新幹線(じょうえつしんかんせん)や自動車道が急速に整備されて、新潟の社会地理的条件が変化し、経済地理的距離の短縮やイメージの向上によって、行き止まり終点の性格から地理的結節点機能をもつなど社会的意味合いが大きく変わっている。新幹線は1982年(昭和57)新潟―大宮間が開通、1985年上野、1991年(平成3)東京乗り入れが完成し、新潟―東京間が2時間で結ばれた。自動車道は関越自動車道(かんえつじどうしゃどう)が1985年、北陸自動車道が1988年、日本列島を横断する新潟―いわき間の磐越自動車道(ばんえつじどうしゃどう)が1997年に開通した。現在は新潟―秋田―青森間の日本海東北自動車道が建設中で、新潟県内では新潟中央ジャンクションから朝日まほろばインターチェンジ(村上市)までが開通している。市内の道路整備も進められており、東・西の新潟市街地間を結ぶ橋の少なかった信濃川の河口部には「新潟みなとトンネル」全4車線が2005年に開通した。延長が3260メートルの壮大な沈埋トンネルである。河口両岸にヨットハーバーなどポートコリドール(回廊状港湾施設)が整備される。万代(ばんだい)橋下流には「柳都(りゅうと)大橋」が2002年に完成し、信濃川左右両岸には都市再整備も進行している。これらの事業が完成すると、商業港湾都市新潟にまったく新しい玄関が整備されて、21世紀型都市景観が現れる。

 新潟空港は「地域拠点空港」に指定され滑走路が2500メートルに拡大された。1973年(昭和48)ハバロフスク便の開設以来、ソウル、台北、上海(シャンハイ)、ハルピンなどへの定期便が運航している。国内便では札幌(新千歳)、成田、名古屋(中部国際・小牧)、大阪(伊丹・関西国際)、神戸、福岡、那覇へ定期便がある。新潟港は1967年に特定重要港湾の指定を受け(2011年、港湾法改正により、国際拠点港湾に変更)、1995年には中核国際港湾にも指定され、空港とともに国際交流拠点性を高めている。航路にはコンテナー航路を中心として、釜山(ふざん/プサン)航路、大連(だいれん/ターリエン)航路をはじめ、対岸貿易と東南アジアへの結節航路として、「外国貿易拠点港」整備が進んでいる。東港区では日本海沿岸地域における国際物流拠点として、コンテナターミナルなどの施設が整備され、西港区では1993年に中央地区に国際旅客ターミナルビルが完成、2003年には万代島地区に国際交流施設「朱鷺(とき)メッセ」がオープンした。

[高津斌彰]

産業

河口港商都として発展してきた新潟市は商業・サービス産業がますます盛んになっている。国際化の進展と産業構造の高度化、および各種交通条件の整備もようやく進んで地域拠点性がいよいよ強化され、第三次産業へシフトし、管理機能や結節機能が高まるなど都市構造の高度化が進んだ。就業者数は1995年(平成7)で25万1062人、1985年(昭和60)から2万7362人約11%増となっている。第一次産業が3.1%、第二次産業が24.5%、第三次産業が72.4%で、第三次産業の比率がきわめて高い。そのうち29.1%が卸・小売り産業部門、25.8%がサービス産業である。日本海側では商業サービス産業がよく発達している。市民所得ではこの特徴はもっと鮮明となる。1994年度のそれは1兆6650億円で、県民所得の23.4%を占め、第2位長岡市8.3%の3倍である。産業別所得構成は第一次産業は1.0%にすぎず、第二次産業でも21.8%、その大部分は第三次産業で80.7%を占めて、商業都市の特徴をはっきり表している。

 もともと新潟の工業発展の基礎は、明治後期から大正・昭和初期の戦前まで、鉄道・港湾・道路・工業用区画整理地など近代産業基盤の整備にあった。越後の各第三紀丘陵の油田を背景に発展してきた精油、硫酸→化学肥料、探鉱→機械工業、低廉な電気による電気鉄(フェロアロイ)、カーバイド、さらにパルプ製紙工業など、近代工業が立地し、発展が始まった。戦中・戦後はこれにアルミ工業や新潟ガス田のガス化学工業が加わり、山の下地区に重化学工業集積も進んだ。1963年(昭和38)には「新産業都市」指定も得て、市の東端の広大な砂丘地に東港臨海工業地帯造成計画が進められた。おりから高度経済成長後の厳しい産業構造変動と経営合理化、地価急騰に遭遇したことと、適切な対応に欠けたことから、土地収用交渉は難航に難航を重ねることになった。こうして用地確保が不完全となったこと、不況による企業の進出見合わせが続出したことから、土地売買が滞り、資金回収に苦労して県財政に赤字負担をもたらした。また無公害企業誘致が約束されていたはずの工場からフッ素ガスをはじめとする公害も発生した。「辛酸都市」なる陰口もきかれてその去就が心配されていた。1980年代後半のバブル経済期から誘致業種が流通、運輸、レジャー、サービス産業や先端産業まで新しく拡大されて、用地は完売でき、現在各種企業の立地展開が進んでいる。高度経済成長期のなかば以来、市内の地代急騰から、製造・加工工場の多くが軽い地代負担と低い課税地を求めて市外に逃げ出したこともあって、第三次産業中心の商業管理機能都市に都市の性格が移ってきている。それでも工業出荷額は1996年度で6671億円で県内随一である。その筆頭は1050億円の石油製品で15.8%、次いで食料品14.2%、金属製品11.8%、パルプ・紙製品10.6%、化学製品9.3%など資源型産業が生産額の上位を占める。機械関係工業の立地展開は薄く、一般機械は580億円で8.7%、輸送用機械は445億円で6.7%、電気機械193億円などとまことに低い構成であり、今後高付加価値産業の展開が期待されよう。農業従事者数や農業所得額は極端に低いが、砂丘地には市民に親しまれるスイカ、ダイコン、各種蔬菜(そさい)、花卉(かき)栽培がみられ、漁業ではイカ、サバ、アジ、カレイ、エビが水揚げされる。

[高津斌彰]

文化・観光

新潟市内には大きな川や低湿な潟(かた)が多く、昔は堀が重要な交通路であって、橋が多かったことから、「水の都」とか「八千八川(はっせんやかわ)」とか表現されてきた。与謝野寛(ひろし)(鉄幹)の「橋あまた柳の中にかくされて水ある街の夕月夜かな」は明治期の港町を、有島武郎(たけお)の「さみだれの淡き晴れ間の夕空をさながらひたす信濃川の水」は築港整備と近代工業の勃興(ぼっこう)、自動車の登場による大正期の新興工都新潟を歌っている。いまは河口港には多くのレジャー用のヨットが係留され、万代橋近くには屋形船も復活されている。日米通商条約によって開かれた五つの港に含まれて、1869年(明治2)に建てられた旧新潟税関庁舎は石造りの倉庫や玄関に石造りのアーチ型門をもつ擬洋風建築であり、国の重要文化財に指定され、いまは新潟市歴史博物館にある。阿賀野川から川船で新潟に入ってきたイギリスの女流旅行家、のちに王立地理学会員のイサベラ・バードが賞賛した新潟の下町は、まさに新潟文化の産屋(うぶや)であった。舟運にぎやかな堀と、堀に向かって狭い小路を挟みながら規則的に並ぶ切り妻屋根のつつましやかな美しさ、堀に沿って走る白い砂敷きの清潔な道はいまはほとんどみつけることがむずかしくなっている。下町に残る新潟子のしたたかな生活の仕方はいまもあちこちの小路の奥に色濃く残っている。そのバイタリティこそが現代の生き生きした商業都市新潟の磐石(ばんじゃく)の基盤を支えている。東北三大祭り(青森のねぶた、秋田の竿灯(かんとう)、仙台の七夕(たなばた))に次ぐ「新潟祭り」は、住吉様をはじめ東西新潟の祭りを一つにまとめたもので、毎年8月上旬に催される。1万発以上の花火が一夕(いっせき)で消費され、南東北の大規模な祭りの一つとなっている。新潟にはいつのころからか「杉の木と男の子は育たない」という諺(ことわざ)があるという。確かに新潟では女性の存在が大きい。しかし、破天荒な生き方とダダイズムなる新しい作風をもって文壇に飛び込み、飾るところがなく、自らのすべてをもって人生に処して、国民の心をつかんだ坂口安吾(さかぐちあんご)も新潟の生まれである。多くの書家に親しまれる歌人の会津八一(あいづやいち)も新潟の生まれであり、記念館は西海岸公園近くに建つ。江戸の後期に医家に生まれて書家文人画家として名をなした長井雲坪(ながいうんぺい)(1833―1899)は沼垂の生まれである。

 1968年(昭和43)には「音楽とスポーツ都市」宣言をしている。1931年創立の「新潟交響楽団」は日本でも屈指の歴史と伝統をもつアマチュアのオーケストラである。1969年にはベートーベンの「第九交響曲」県内初演を果たして、定期演奏会は2017年で第100回を数えた。合唱団には箕輪久夫(みのわひさお)の指揮する「レディスクワイアJUNE」など多くを数える。1989年には市制施行100周年を記念して市民ミュージカル「アジブの扉」も演じられている。毎年末に有力地方銀行によって開催される“ベートーベンの第九交響曲”「だいしライフアップコンサート」は、若者から高齢者まで広く市民に楽しまれている。夏には青山海岸の「日本海夕日コンサート」もあり、各種の音楽会・演奏会が広く親しまれている。スポーツでは2002年の第17回ワールドカップ(日韓共催)サッカーの開催地の一つであり、「アルビレックス新潟」はJリーグで活躍している。市の中心部信濃川の左岸の白山地区には、近年相次いで取り壊されてしまったが、テニスコート、公会堂、県立図書館があって長らく市民に親しまれてきた。残された県民会館や体育館、音楽文化会館の近隣には、新潟市民芸術文化会館(りゅーとぴあ)や空中庭園が新設され、1998年に一帯は白山公園区域に加えられた。白山公園は1873年に造成された日本で最初の都市公園の一つで、2018年には国の名勝に指定されている。佐渡汽船発着場と旧西港地区には、都心部再開発の一環としてコンベンション(会議)機能中心の万代島再開発が進み、新幹線の敷設(ふせつ)以来発展する駅南地区には、オフィス・サービス産業施設が拡大している。こうした市街地拡大による環境破壊を防ぐ意味から、鳥屋野潟周辺には県立自然科学館、県立図書館、自然公園などが整備された。市の西端部の自然豊かな佐潟(さかた)は1996年にラムサール条約登録湿地に認定された。従来は工業化と近代化に忙しく、緑地や公園・水辺の維持や保全に消極的であった新潟市にも、市民や団体の努力を中心にした良好な環境維持と積極的な緑地づくりが進められている。

 情報化社会と国際化の進展に伴って、テレトピア、郵トピアモデル都市、国際コンベンションシティ指定都市でもある。環日本海太平洋諸国を一つにした環日本海新潟駅伝(2004年が最後の大会)など各種の国際スポーツ・文化・学術交流や、環日本海シンポジウムなども開催され、1980年代後半から国際交流はいっそう盛んになっている。

[高津斌彰]

『『新潟県百年史』上・下2冊(1969・新潟県史研究会)』『『新潟県百年のあゆみ』(1971・新潟県)』『『日本地誌』9巻(1972・二宮書店)』『『新潟県大百科事典』上・中・下(1977・新潟日報事業社)』『是沢他編『新潟県風土記』(1979・暁和出版/考古堂)』『『新潟県史』(1984・新潟県)』『植村元覚・中藤康俊著『産業地域の形成と変動』(1985・大明堂)』『井手策夫他編『地方工業地域の展開』(1986・大明堂)』『『新潟県の昭和史』(1989・新潟日報事業社)』『『新潟市史』18冊(1990~1998・新潟市)』『『新潟県風土記』(1990・旺文社)』『山田安彦・山崎金哉著『歴史のふるい都市群5』(1993・大明堂)』『『日本地名大百科』(1996・小学館)』『中村義隆・石黒正英編著『ふるさと今昔 新潟市パノラマ館』(1999・郷土出版社)』『足立豊・五百川清・五十嵐公・石川新一郎・大塚哲他著『新・にいがた歴史紀行1 新・新潟市』(2004・新潟日報事業社)』『『新潟県勢要覧』各年版(新潟県)』『『新潟県統計年鑑』各年版(新潟県)』


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