坂口安吾(読み)さかぐちあんご

精選版 日本国語大辞典 「坂口安吾」の意味・読み・例文・類語

さかぐち‐あんご【坂口安吾】

小説家。新潟県出身。東洋大学卒。本名炳五(へいご)。「風博士」など特異な文体で認められた。第二次世界大戦直後、いわゆる新戯作派の一人として活躍。「白痴」「堕落論」などで流行作家となる。歴史小説推理小説も手がけた。明治三九~昭和三〇年(一九〇六‐五五

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デジタル大辞泉 「坂口安吾」の意味・読み・例文・類語

さかぐち‐あんご【坂口安吾】

[1906~1955]小説家。新潟の生まれ。本名、炳五へいご。情痴・荒廃の世界を戯画的な手法で表現し、大胆な文明批評戦後文学代表者の一人となった。評論「日本文化私観」「堕落論」、小説「風博士」「白痴」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「坂口安吾」の意味・わかりやすい解説

坂口安吾
さかぐちあんご
(1906―1955)

小説家。明治39年10月20日、新潟市生まれ。本名は炳五(へいご)。父仁一郎、母アサの五男。坂口家は旧家で大地主。放任主義の父、母にもなじめなかった安吾は、幼稚園、小学校、中学とはみだしが多く、まともに通学しなかった。「家」に反逆し孤立した彼を癒(いや)してくれたのは、故郷の海と空と風であった。1922年(大正11)県立新潟中学を退学して、東京の豊山(ぶざん)中学3年に編入学。中学卒業後代用教員となったが、26年東洋大学印度哲学科に入学。一念発起、寸暇を惜しんで哲学宗教書、梵語(ぼんご)、パーリ語、フランス語などを勉強し習得した。28年(昭和3)アテネ・フランセに入学し、長島萃(あつむ)などを知る。30年東洋大学卒業。同人誌『言葉』を創刊。31年、処女作『木枯の酒倉から』『ふるさとに寄する讃歌(さんか)』を発表。『風博士』(1931)を牧野信一が、『黒谷村』(1931)を島崎藤村(とうそん)、宇野浩二(こうじ)がそれぞれ激賞、さっそうと文壇に登場した。32年、新進美貌(びぼう)の女流作家矢田津世子(やだつせこ)と激しいプラトニック・ラブに陥って苦しみ、京都に転住。矢田との愛の清算長編吹雪(ふぶき)物語』(1938)となって結実した。38年帰京。太平洋戦争下に大胆破格な評論『日本文化私観』(1943)を発表。

 戦後は混迷錯乱状況のなかで、人間の本質を洞察した『堕落論』(1946)を、その実践として『白痴』(1946)を発表した。これらの文学活動は、戦後の虚脱状態にあった日本人に一大衝撃を与えた。石川淳(じゅん)などといっしょに新戯作(げさく)派ないし無頼派とよばれ、敗戦当初の文壇の旗手として脚光を浴びた。その後、一躍流行作家となり、1947年(昭和22)名作『桜の森の満開の下』を発表。梶(かじ)三千代と結婚、その反映が『青鬼の褌(ふんどし)を洗ふ女』(1947)となる。歴史小説『織田信長』(1948)、推理小説『不連続殺人事件』(1947~48)にも筆を染めたのもこのころである。49年、睡眠薬と覚せい剤による中毒症状が狂暴錯乱の行動をもたらした。50年、『安吾巷談(こうだん)』で世相を切り続け、国税庁や自転車振興会を相手に抗議文を書き注目を集めた。また『夜長姫と耳男』(1952)を発表したが、『狂人遺書』(1955)を残し脳出血により昭和30年2月17日急逝した。享年50。

[伴 悦]

『『定本坂口安吾全集』全13巻(1967~71・冬樹社)』『『坂口安吾評論全集』全7巻(1971~72・冬樹社)』『関井光男編『坂口安吾研究Ⅰ・Ⅱ』(1972、73・冬樹社)』『森安理文著『偉大なる落伍者坂口安吾』(社会思想社・現代教養文庫)』


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改訂新版 世界大百科事典 「坂口安吾」の意味・わかりやすい解説

坂口安吾 (さかぐちあんご)
生没年:1906-55(明治39-昭和30)

小説家。新潟県生れ。本名炳五(へいご)。父仁一郎は代議士で,また,漢詩をよくした。安吾は少年時代から自由奔放で,1919年新潟中学に入学したが,2年で落第,翌年上京して豊山中学に転校,卒業後1年間小学校の代用教員を務めた。25年,東洋大印度哲学科に入学,またアテネ・フランセに通ったが,東洋大卒業後の30年,江口清,葛巻義敏(くずまきよしとし)らと同人誌《言葉》を創刊,《木枯の酒倉から》を発表,つづいてその後継誌《青い馬》に,《風博士》《黒谷村》(ともに1931)の2作を書き,牧野信一その他に認められた。このころ女流作家矢田津世子との恋愛があり,また,中原中也を知った。デカダンな生活におぼれていくなかで牧野の主宰する《文科》に《竹藪(たけやぶ)の家》を連載。その後,自身の半生の総決算とも言うべき長編《吹雪物語》(1938)を書いた。40年には大井広介,平野謙らの《現代文学》に参加し,同誌に《日本文化私観》(1942)などを書いたほか,《青春論》(1942)その他の卓抜なエッセーを発表した。その延長線上に,戦後《堕落論》を書いて太宰治,織田作之助らとともに〈無頼(ぶらい)派〉と呼ばれ,流行作家として活躍,《白痴》(1946),《桜の森の満開の下》(1947),《不連続殺人事件》(1947-48)などの名作を残した。
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百科事典マイペディア 「坂口安吾」の意味・わかりやすい解説

坂口安吾【さかぐちあんご】

小説家。本名炳五(へいご)。新潟市生れ。代議士坂口仁一郎(五峰)の五男。東洋大印哲卒。1931年《風博士》《黒谷村》で認められたが,観念的な作風のため一般には親しまれず,戦中の卓抜なエッセー《日本文化私観》《青春論》で注目された。エッセー《堕落論》,小説《白痴》で戦後の混乱期の人びとの心をとらえ一躍流行作家となった。偽善より堕落をよしとする野人精神を発揮して太宰治織田作之助らとともに〈無頼(ぶらい)派〉と呼ばれた。ほかに《桜の森の満開の下》,推理小説《不連続殺人事件》,エッセー《安吾巷談》。《坂口安吾全集》12巻がある。
→関連項目石川淳檀一雄捕物帳林忠彦無頼派

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「坂口安吾」の意味・わかりやすい解説

坂口安吾
さかぐちあんご

[生]1906.10.20. 新潟
[没]1955.2.17. 桐生
小説家。本名,炳五。 1930年東洋大学インド哲学科卒業。 31年『風博士』『黒谷村』が牧野信一,宇野浩二らに激賞されて文壇に登場。その後失恋による空白を経て,42年の『日本文化私観』『青春論』などの随筆で復帰した。第2次世界大戦後,「生きよ,堕ちよ」という逆説のモラルを評論『堕落論』 (1946) で説き,小説『白痴』 (46) ,『青鬼の褌を洗う女』 (47) などを発表,戦後社会の混乱と退廃を反映する独自な作風を樹立した。ほかに歴史小説『道鏡』 (47) ,推理小説『不連続殺人事件』 (47~48) ,文明批評的随筆『安吾巷談』 (50) などがある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「坂口安吾」の解説

坂口安吾 さかぐち-あんご

1906-1955 昭和時代の小説家。
明治39年10月20日生まれ。坂口仁一郎の5男。昭和6年「風博士」でみとめられる。戦後「堕落論」「白痴」などを発表。無頼派とよばれ,文明批評,歴史小説,探偵小説などの分野で活躍した。昭和30年2月17日死去。48歳。新潟県出身。東洋大卒。本名は炳五(へいご)。作品はほかに「吹雪物語」「日本文化私観」「不連続殺人事件」など。
【格言など】余は偉大なる落伍者となって,何時の日にか歴史の中によみがえるであろう(旧制中学在学中に教室の机に彫ったことば)

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世界大百科事典(旧版)内の坂口安吾の言及

【堕落論】より

坂口安吾の評論。1946年4月《新潮》に発表。…

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