新寺町(読み)しんてらまち

日本歴史地名大系 「新寺町」の解説

新寺町
しんてらまち

[現在地名]弘前市新寺町

城の南側に位置し、桶屋おけや町から久渡寺くどじ通に至る道筋の町並。北側にみなみ溜池があり、北新寺きたしんてら町と新寺町新割しんてらまちしんわり町に接する。

慶安二年(一六四九)てら町大火ののちに町内は形成され、「津軽一統志」に翌三年「本寺町の寺を引て溜池の南へ移す。今新寺町同所溜池の橋御普請」とある。万治二年(一六五九)の弘前町絵図(市立弘前図書館蔵)町名はないが、町内に屋敷割がされ、法源ほうげん寺ほか七ヵ寺の寺割と寺名が記されるが、大円だいえん(現最勝院)との間の道路は接続していない。

新寺町
しんてらまち

江戸時代初期から寺院が集中して配された地域の通称。現東上野ひがしうえの二―三丁目・同六丁目・元浅草もとあさくさ一―四丁目・松が谷まつがや一―三丁目一帯、東西に走る現在の浅草通(かつては新寺町通)を挟んだ地域に比定される。「御府内備考」によれば、浅草と下谷したやを結ぶ大通り(新寺町通)を隔てて南は三味線しやみせん堀近辺、また浅草阿部川あさくさあべかわ町辺りまで、北は清水せいすい寺の後ろ、海禅かいぜん寺辺りまでの一円を新寺町と称した。このうち等覚とうがく寺・新光明寺横しんこうみようじよこ町を七軒寺しちけんてら町、成就院横じようじゆいんよこ町を田中寺たなかてら町といった。新寺町通に沿った浄土宗西光さいこう寺・正安しようあん寺、真宗西照さいしよう寺は寛永一三年(一六三六)浅草御蔵前あさくさおくらまえから寺地を与えられて移ってきたとされ、以後明暦三年(一六五七)の大火や元禄一一年(一六九八)勅額火事などを契機に湯島、矢ノ倉やのくら(現中央区)などから寺が移転してきた(寺社備考)

新寺町
しんてらまち

[現在地名]高知市城北じようほく

桜馬場さくらばば北方小高坂こだかさ村のうち町場化した地域のはずれにあたる。もとこの地は、伊達政宗の末子で伊達騒動の責任者として土佐国に配流された伊達宗勝の配所として用いられた地で、三方に堀が巡らされていた。延宝七年(一六七九)宗勝は没したが、宝永四年(一七〇七)の大地震でくち川の堤防決壊城下しん町の東にあった寺町が罹災して同地にあった寺院の一部がここに移り、寺町ができ(南路志)、城下の寺町に対して新寺町と称した。

新寺町
しんてらちよう

[現在地名]水戸市城東じようとう二丁目

三軒さんげん町の北にあり、東と北は川岸通り。中世の川崎かわさき郷の地で、もと川崎内かわさきうちまた内川崎ともいった。「水府地名考」によれば元和元年(一六一五)「井田望月藤田大森等の諸士寄合曹洞宗蒼竜寺と云へるを被橋際に建立せし故橋を新寺橋といふ」とあり、元禄三年(一六九〇)に新寺町と名付けた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報