新宮城跡(読み)しんぐうじようあと

日本歴史地名大系 「新宮城跡」の解説

新宮城跡
しんぐうじようあと

[現在地名]喜多方市慶徳町新宮 館内など

新宮集落の北、にごり川西岸の山麓に位置する平城でおお城ともいう。建暦二年(一二一二)佐原盛連(平姓三浦氏一族)の六男で新宮氏の祖時連による築城と伝えるが(「新宮雑葉記」「新編会津風土記」など)、不詳。新宮氏は新宮庄地頭として当城に拠り、耶麻郡の西部一帯に勢力を振るった。なお当城主新宮氏が平姓であったことは確かなことと思われるが(貞和五年七月二一日「銅鐘銘」熊野神社蔵など)、時連の子孫とすることを疑問とする説もある。

南北朝期以降、新宮氏は黒川くろかわ(現会津若松市)の蘆名氏と抗争を繰広げる。応永九年(一四〇二)には新宮盛俊が北田きただ(現湯川村)城主北田氏と内応して蘆名氏に対して挙兵(会津旧事雑考)、盛俊は青山あおやま城を攻め城主佐原(加納)氏を滅ぼした(新宮雑葉記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「新宮城跡」の解説

しんぐうじょうあと【新宮城跡】


和歌山県新宮市新宮にある城跡。指定名称は「新宮城跡 附水野家墓所(つけたりみずのけぼしょ)」。新宮城跡は丹鶴(たんかく)城跡とも呼ばれ、大峰山系に源を発し、太平洋に流れ込む熊野川の河口沿い南岸の標高約60mの丘陵上に位置する。城跡一帯は、熊野速玉(くまのはやたま)大社の東にあたり、平安時代後期には熊野速玉大社の神宮寺的な存在であった丹鶴山東仙寺があったとされる。城跡は現在、本丸地域を中心に丹鶴城公園として整備が進められ、そのための発掘調査が行われてきたが、この地域からは、雛壇状に区画造成され、隙間なく建てられた19棟の礎石建物群と通路が確認された。建物は長方形台形・L字形など多様な平面形をもっており、この建物群は郭(くるわ)の地形を最大限利用して造られたもので、床面に砂利と炭粉が堆積したものが多いことや、建て替えの際の整地層から多数の炭が出たことなどから炭小屋群と推定された。炭俵に換算すると1万俵あまりの収容力のある施設で、新宮炭の専売を行っていた藩が、本来軍事的性格を有する場所であった水ノ手郭を、江戸時代に経済的性格をもつ施設に利用したものと考えられている。また、城跡の南約1kmに位置する水野家墓所は、初代重仲から10代までの新宮城主とその親族の墓碑16基が建ち並び、良好に保存されており、新宮城の整備と藩運営に携わった大名家墓所として貴重であることから、城跡とともに2003年(平成15)に国の史跡に指定された。JR紀勢本線新宮駅から徒歩約15分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報