恩地村(読み)おんじむら

日本歴史地名大系 「恩地村」の解説

恩地村
おんじむら

[現在地名]浜松市恩地町

大柳おおやぎ村の北に位置し、北は参野さんじの村。恩寺村とも記された。天正一八年(一五九〇)一二月二八日に頭陀ずだ寺に宛てた豊臣秀吉寺領寄附朱印状(頭陀寺文書)に「河勾庄恩地門前廻市場」二〇〇石とある。この恩地は近世の頭陀寺領西恩地村にあたるとみられる。恩地村記(「随庵見聞録」岡部家文書)には永禄年間(一五五八―七〇)大柳村より分村したが、これは帰農した芝切百姓の太田彦十郎政忠が今川氏真から当地を安堵されたことによるという。

恩地村
おんじむら

[現在地名]三朝町恩地

大柿おおがき村の南東竹田たけだ川右岸に位置する。拝領高七六石余。米子荒尾分家の荒尾氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高八三石余、竈数八。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)によると朱高八三石余、高九五石余、うち畑高六石余。免六ツ七分、倉吉御蔵納。悪田加損米四石。炭役米二斗・藪役銀四匁が課され、棟数五軒・役高一〇〇人。男三三・女二四。幕末の六郡郷村生高竈付では生高九四石余、竈数一四。

恩地村
おんじむら

[現在地名]松山市恩地町おんじまち

松山市域の東北端に近い山村高縄たかなわ山塊の西南部にあたり、三〇〇―五〇〇メートルの山地が連亘し、高原状を呈する。人家渓谷に沿ってわずかに存在し、大部分草原山林に覆われている。東は梅木うめのき村、西は柳谷やないだに村、南は小屋こや城山じようのやま二村、北は牛谷うしだに(現北条市)に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)風早かざはや郡の項に「恩地村 芝山有、林少有」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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