徳田新田(読み)とくだしんでん

日本歴史地名大系 「徳田新田」の解説

徳田新田
とくだしんでん

[現在地名]笠松町相生町あいおいちよう県町けんまち八幡町はちまんちようなど

笠松村に三方を囲まれ、東方のみ木曾川に臨む。寛文二年(一六六二)当地に美濃国の幕府領を管理する代官所(陣屋)が設置され、以後当村と笠松村・田代でんだい柳原やなぎはらにまたがって町場が形成され、三郷と称された。慶応三年(一八六七)の口達書(「美濃郡代申送書並引渡目録」県立歴史資料館蔵)に「笠松村・徳田新田・田代村之内柳原分之儀は、陣屋許三郷一体之取斗ニ有之」とある。天正一四年(一五八六)の木曾川筋氾濫後に野方が開発された村で、開発の主体は徳田村(現岐南町)村民であった。

徳田新田
とくだしんでん

[現在地名]塩沢町徳田新田

中子なかご新田の南。西は舞子まいこ村、東と南は仙石せんごく村。仙石村地内から開発されたという(新編会津風土記)。また永禄九年(一五六六)に初めて民戸が建ち、天正九年(一五八一)に分村したという(南魚沼郡誌)仙石村の枝村。天和三年郷帳では高三六八石二斗余。

徳田新田
とくだしんでん

[現在地名]南濃町戸田とだ

徳田村の北にある同村枝郷。元禄郷帳徳田一色とくだいつしきとみえ、高一二一石余で大垣藩領。天保郷帳では徳田村の内に高付される。「新撰美濃志」に徳田村枝郷とあり、一色村とも徳田新田ともいうとある。明治五年(一八七二)村明細帳によれば、高五三一石余で、永荒引の田四四〇石余・反別三六町八反余、畑七二石余・反別六町七反余、家数五一・人数二〇五、馬五。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報