徳山村(読み)とくやまむら

日本歴史地名大系 「徳山村」の解説

徳山村
とくやまむら

[現在地名]徳山市舞車まいぐるま町・慶万けいまん町・河東かわひがし町・速玉はやたま町・松保まつほ町・東山ひがしやま町・若草わかくさ町・築港ちつこう町・入船いりふね町・清水しみず町・泉原いずみばら町・楠木くすのき一―二丁目・おうぎ町・秋月あきづき一―二丁目・大内おおうち町・周陽しゆうよう一―三丁目・江の宮えのみや町・瀬戸見せとみ町・孝田こうだ町・じようおか一丁目・同五丁目・西松原にしまつばら一―二丁目・同四丁目・今宿いまじゆく町のほぼ全域、および新宮しんぐう町・青山あおやま町・五月さつき町・横浜よこはま町・那智なち町・城ヶ丘二―四丁目・平原ひらばら町・桜木さくらぎ一丁目・同三丁目・西松原にしまつばら三丁目・月丘つきおか町・緑町みどりまちなど、および大字徳山の大部分

ひがし川の河口一帯を村域とする村で、毛利就隆の居館が構えられた慶安三年(一六五〇)以前は、野上のがみ庄とか野上郷・野上村などとよばれた。東の遠石といし村を村域に含む場合もあるが、寛永三年(一六二六)の熊野帳や「地下上申」は遠石村を別立てとする。

徳山村
とくやまむら

[現在地名]藤橋村徳山

揖斐川の左岸にあり、北に能郷白のうごはく山がそびえる。東の馬坂うまさか峠を越えると本巣もとす根尾ねお(現根尾村)に至る。「太平記」巻一九によれば、延元三年(一三三八)一月八日に鎌倉を出た北畠顕家一行のもとへ「美濃ノ根尾・徳山ヨリ堀口美濃守貞満」が一千余騎を擁して駆付けている。「新撰美濃志」によれば、近世当地方を領した旗本徳山氏の祖徳山貞長は守護土岐頼忠の子で、徳山城を拠点にしたという。当村を本郷ほんごうともよぶ。慶長郷帳に大野郡徳ノ山村とみえ、高三六〇石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では旗本徳山直政領。のち大野郡徳山村・山手やまて村・櫨原はぜはら村・つか村、池田いけだ郡池田村・戸入とにゆう村・門入かどにゆう村・志津原しづはら(漆原村)の八ヵ村に分村した(正保郷帳)

徳山村
とくさんむら

[現在地名]辰口町徳山・緑が丘みどりがおか松が岡まつがおか

湯屋ゆのや村・辰口村の南、能美丘陵の西部に位置し、南は和気わけ村。集落は本村と出村の二つの垣内があり、本村が上徳山、西方出村が下徳山。康永元年(一三四二)泉涌せんにゆう(現京都市東山区)の朴艾思淳は自らが再興した覚園かくおん(現神奈川県鎌倉市)住持職とともに同寺領関係の文書すべてを門弟の山翁浄真に譲ったが(同年八月三日「朴艾思淳覚園寺文書譲状」覚園寺文書)、浄真の名に「徳山前住山翁宗師」の朱注がある。

徳山村
とくやまむら

[現在地名]浅井町徳山

醍醐だいご村の北、草野くさの川左岸に位置。坪谷つぼたに川が集落内を西流して草野川に合流する。寛永石高帳に村名がみえ、高一四八石余とあり、小堀遠州領(幕府領か)正保郷帳では旗本小堀正十領。元禄郷帳では小室藩領・旗本松野領の相給。天明村高帳では小室藩領九八石余・松野領六〇石余で、文政石高帳では幕府領八七石余・松野領七〇石余。正徳五年(一七一五)飯山いやま村との間で草野川をめぐって相論があり、当村が飯山村内に簗を打つことが禁じられた。享保一一年(一七二六)には東草野村組五ヵ村が西草野側に侵入し当村・郷野ごうの村・鍛冶屋かじや村・高山たかやま村の四ヵ村との間に相論が生じた(中村文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報