藤橋村(読み)ふじはしむら

日本歴史地名大系 「藤橋村」の解説

藤橋村
ふじはしむら

[現在地名]青梅市藤橋

今寺いまでら村の南東に位置する。地内を秩父道(鎌倉街道)町屋まちや街道・河岸かし街道などの往還が通っていた。北の南小曾木みなみおそき村境に笹仁田ささにた峠がある。かつては今寺村と一ヵ村であったと伝え、同所の天台宗報恩ほうおん寺および当地の真言宗豊山派宝泉ほうせん寺は山号をともに藤橋山とする。応永三年(一三九六)一〇月一八日日光輪王りんのう寺が関東の天台寺院に委託した大般若経一日頓写で報恩寺は巻一五五を担当、そま保藤橋報恩寺忍蔵坊とある。永正九年(一五一二)塩船しおぶね観音寺の本尊の修理には「藤橋番匠」が関与している(同年閏四月一三日観音寺本尊銘文)。宝泉寺蔵の平安期作とされる阿弥陀像に「宝泉寺」の寺号および応永元年・文亀四年(一五〇四)二月の修理銘がみえる。

藤橋村
ふじはしむら

[現在地名]七尾市藤橋町・北藤橋町きたふじはしまち南藤橋町みなみふじはしまち西藤橋町にしふじはしまち馬出町うまだしまち御祓町みそぎちよう栄町さかえまち

石動せきどう山系から流出する御祓川の沖積作用によってつくられた平野に位置し、御祓川が貫流して所口ところぐち町に入り七尾南湾に注ぐ。同川沿いに西往来が通る。文禄五年(一五九六)四月一五日の前田利家印判状写(三輪文書)に「藤橋村明神野ニたてさせ尤候事」とある。村名は小丸山こまるやま城の外郭の堀に架かる藤橋にちなむ(能登志徴)正保郷帳の高五八六石余、田方三〇町四反余・畑方八町六反余、免四ツ五歩、新田高三二石余、免三ツ三歩四厘。

藤橋村
ふじはしむら

面積:三二二・三四平方キロ

郡の北部を占め、全域が伊吹山地。昭和六二年(一九八七)徳山とくやま村を編入し、郡内最大の面積をもつ。南は久瀬くぜ村・坂内さかうち村、東は本巣もとす根尾ねお村、西は福井県南条なんじよう今庄いまじよう町、北は同県今立いまだて池田いけだ町・大野おおの市と接する。南部の五蛇池ごじやいけ山・烏帽子えぼし山・三周さんしゆうヶ岳、北部の釈迦しやか嶺・金草かなくさ岳・能郷白のうごはく山など一一〇〇―一六〇〇メートル級以上の山嶺がそびえる。これらの山を水源とする揖斐川上流が流れ、村の南部は横山よこやま貯水池になっており、また一帯は揖斐県立自然公園である。近世は現村域に池田郡七村・大野郡七村があり、尾張藩領・大垣藩領・旗本徳山領・同青木領として推移した。

藤橋村
ふじはしむら

[現在地名]井波町藤橋

松島まつしま村の西に位置し、井波町の南西側に家並が続く。瑞泉ずいせん寺は慶長元年(一五九六)地内に再建されたが、同一八年に現在地に移転(瑞泉寺由来記)。同二年九月一日の藤橋村検地打渡状(菊池家文書)によると高六八俵二斗余、物成は定米六〇俵。元和五年(一六一九)の家高新帳では役家数一四、つほ野組に属する。正保郷帳では高三四石余、田方のみで二町三反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二九石・免二ツ、小物成は山役一三八匁(三箇国高物成帳)。所属組は井波町に同じ。元禄二年(一六八九)の持山畠開年貢達状(藤沢家文書)によると畠開高一五石。蚕種商人がおり、越前ほか諸所へ蚕種商いに出かけていた(宝永六年「蚕飼一件縮方定書」井波町肝煎文書)

藤橋村
ふじはしむら

[現在地名]浪江町藤橋

南の南幾世橋みなみきよはし村との間に室原むろはら川が流れ、西は西台にしだい村、北は標高七、八〇メートルの山嶺により行方なめかた郡となる。総士禄高調の文禄二年(一五九三)の項に「廿貫九百廿文 藤橋刑部丞」がみえる。正保郷帳では田方四三石余・畑方二八石余。元禄郷帳では高一一四石余。寛永一六年(一六三九)の高一七七石余、明暦二年(一六五六)の高一七七石余(奥相志)。天明三年(一七八三)の家数一四、嘉永元年(一八四八)の家数一九(検地石高収納戸口等調)。文久元年(一八六一)の高一二八石余、家数二一・人数一一四、馬二三(奥相志)

藤橋村
ふじはしむら

[現在地名]柏崎市藤橋

東は軽井川かるいがわ村、西は上方かみがた村、南はほり村。近世の支配は柏崎町と同じ。正保国絵図に高五〇一石余。天和三年(一六八三)の越後中将御領覚では高四四四石九斗余。同年の検地帳(柏崎市立図書館蔵)では田三二町八反余・畑屋敷二町六反余、屋敷四二筆。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報