御前沙汰(読み)おまえざた

精選版 日本国語大辞典 「御前沙汰」の意味・読み・例文・類語

おまえ‐ざた おまへ‥【御前沙汰】

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改訂新版 世界大百科事典 「御前沙汰」の意味・わかりやすい解説

御前沙汰 (ごぜんざた)

室町幕府において,将軍臨席を得るか,将軍の裁可を得る手続きを伴って行われる評定(ひようじよう)。初期には見られず,15世紀初頭,足利義満の晩年ごろより見られる。公家社会では朝廷の行事を〈政事〉と呼ぶのに対し,一般の訴訟は〈雑訴〉と呼ばれていたので,これにならい〈雑訴沙汰(ざつそざた)〉と呼ばれることもある。室町幕府は,その成立の当初においては,鎌倉時代の北条義時・泰時ごろのいわゆる執権政治全盛期を模範としていた。幕府の最高意志を決める場も鎌倉幕府のそれにならい,評定-引付の体制によった。尊氏の弟直義(ただよし)は執権と同等の地位に座り,足利一門,被官の中でも親直義派の人々,それに鎌倉幕府で評定衆クラスであった人々などが評定衆,引付衆となった。直義の影響力が強かった評定-引付の体制は,尊氏と直義の幕府主導権争いともいいうる観応の擾乱によって大きく変化を遂げる。1351年(正平6・観応2)引付方はいったん廃止の後,翌年復活されたが,その後はしだいに実質的意味を失っていったらしい。2代将軍義詮(よしあきら)のときに将軍が臨席する評定があったことが知られているが,これを引付方と関連づけて考えるべきか,それとも御前沙汰と考えるべきか,今のところ明らかではない。いわゆる御前沙汰なるものが史料上に見えるのは,3代義満の晩年からである。このころになっても評定始などの形で前代制度の残滓は残っているが,当時の実務担当者である奉行衆らを成員に加えた,より実務的な評定の場として御前沙汰が行われた。4代義持の時代にははっきりその形を現さないが,6代義教は義満の制にならって御前沙汰を行い,以後幕府の最高評議の場となった。応仁の乱後10代義材(よしき)(後に義稙(よしたね))のころからは,会議には将軍は臨席せず,殿中申次と呼ばれる側近衆が会議の結論を持って将軍の下に参じ,裁可を仰ぐように変わり,12代義晴のころには,この側近衆を内談衆内談方)と呼んでいる。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「御前沙汰」の解説

御前沙汰
ごぜんざた

室町幕府の政務決裁の体制。幕府初期には評定・引付が設けられ,訴訟をはじめ政務が議定されたが,2頭政治の一翼を担い評定・引付を掌握した足利直義(ただよし)の没落後は,しだいに衰退。3代将軍義満以降は将軍の親裁する御前沙汰がとってかわる。評議決裁手続や役割は時期により異なるが,応仁の乱前は将軍,管領,旧来の評定衆の一部,奉行衆を構成員とし,6代将軍義教以降,意見などを通じて奉行衆の活動がしだいに拡大。乱後,体制は大きく変動し,有力構成員であった管領や旧来の評定衆が姿を消す。同時に将軍臨席の評議が開かれなくなったため,指令の伝達や伺事(うかがいごと)の取次役となった将軍側近衆が,奉行衆とともに大きな役割を担いはじめた。

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