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第102代天皇(在位1428~64)。名は彦仁(ひこひと)。法名円満智。後文徳(ごもんとく)院と称した。後崇光(ごすこう)院貞成(さだなる)親王の第1皇子。実母は庭田経有(にわたつねあり)の女(むすめ)敷政門院(ふせいもんいん)幸子。養母は日野資国(すけくに)の女光範門院資子。室町時代の初め、称光(しょうこう)天皇には後嗣(こうし)がなく、その死によって後光厳(ごこうごん)天皇流の皇統は断絶することになった。そこで父後小松(ごこまつ)上皇の意志により、貞成親王の第1皇子が、上皇の猶子(ゆうし)として迎えられて位についたのが後花園天皇である。そこで血統上、皇位は持明院(じみょういん)統嫡流たる崇光(すこう)天皇流に復帰した。1464年(寛正5)位を皇子後土御門(ごつちみかど)天皇に譲り、67年(応仁1)応仁(おうにん)の乱を憂えて出家、文明(ぶんめい)2年12月27日没。丹波(たんば)後山国(のちのやまぐに)陵に葬る。
[村田正志]
第102代に数えられる天皇。在位1428-64年。北朝の崇光天皇の曾孫。父は伏見宮3代貞成親王。諱は彦仁。称光天皇に皇嗣がなく,後小松上皇の猶子として践祚した。学問を好み仁徳も深く,皇子後土御門天皇に教訓状を与えたり,飢饉などで庶民困窮のとき,ぜいたくにふける足利義政に戒めの和歌をおくった話が有名。陵所は京都市の旧京北町にある(後山国陵)。
執筆者:飯倉 晴武
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1419.6.18~70.12.27
在位1428.7.28~64.7.19
名は彦仁(ひこひと)。父は伏見宮貞成(さだふさ)親王(後崇光(ごすこう)院),母は敷政門院(ふせいもんいん)幸子。1428年(正長元)称光天皇が皇子のないまま没したため,皇位が南朝系に移るのを恐れた幕府に擁され,後小松上皇の猶子(ゆうし)となり,親王宣下も立太子の儀もないまま践祚(せんそ)。64年(寛正5)譲位。67年(応仁元)出家。法名円満智。皇子後土御門(ごつちみかど)天皇に贈った教訓状「後花園院御消息」がある。
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…義教は朝廷にも積極的に介入した。称光天皇が没したあと,男子がなかったため伏見宮貞成親王の子を立てて天皇とした(後花園天皇)が,これは義教のはからいであった。南朝の後胤については極力僧侶にしむけ,または討伐して絶滅を図った。…
…このため親王の即位はついに実現せず,さらに父天皇の没後はそれまで伝領してきた長講堂領以下の持明院統の所領も朝廷に召し上げられたため親王はすこぶる窮境に陥ったが,やがて伏見荘をはじめ若干の所領を回復して一家の存続を維持し,伏見宮創立の基を開いた。親王の後はその子の治仁王,貞成(さだふさ)親王が相承したが,一方後光厳天皇の皇統は後円融天皇,後小松天皇を経て称光天皇に至って絶えたため,貞成親王の王子彦仁王が後小松上皇の猶子に迎えられて皇位につき,後花園天皇となった。この間の事情は貞成親王の著《椿葉記(ちんようき)》に詳しいが,ここに至って皇位は崇光天皇の子孫に帰するとともに,伏見宮の地位は安泰となり,第24代博明王が1947年に皇籍を離脱するまで,およそ550年の長きにわたって相承された。…
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