後山村(読み)うしろやまむら

日本歴史地名大系 「後山村」の解説

後山村
うしろやまむら

[現在地名]畑野町宮川みやかわ

西は竹田たけだ合沢ごうざわ(現真野町)、北は宮浦みやうら村、東は河内かわち(現飯持)、南は大久保おおくぼ村。小佐渡山地の北に面した山麓で、国仲くになか平野に突出した舌状台地上にある。台地は標高一五メートル前後の低位台地と、三〇メートル以上の高位台地の二段をなし、約半数の家は低位台地上を東西につなぐ道路上に街村をつくり、他は高位台地上および中間の傾斜面に散在する。村は室町時代末期に宮浦村を元村として山つき側が分村したものという。宮浦村には雑太本間氏の一族本間直泰の居城があり、小倉おぐら川の水利権を掌握し、その水を舌状台地の開田に利用したと思われる。村はその開田に伴い成立したとみられる。

後山村
うしろやまむら

[現在地名]金津町後山・東山ひがしやま

けんヶ岳西麓の小盆地にある。枝村として東山・鳥越とりごえがあった(越前国名蹟考)。永仁五年(一二九七)の坪江下郷の検注記録(大乗院文書)のなかに、

<資料は省略されています>

とあり、また同六年の御検注使迎料水津夫伝馬事(同文書)に「後山 伝馬一疋 口付一人」とみえる。当村は西方と東方(後の東山村)に分れ、坪江上郷条々(同文書)には「東西後山分」として「本田廿町四反小 佃六反」「後山番二十町東西後山」と記され、後山・中山・鳥越といった土豪の支配を受けていた。なお坪江上郷条々の松林院応安六年記云上郷別納方注文には「後山東西後山一族支配」とある。

後山村
うしろやまむら

[現在地名]安佐北区安佐あさ町後山・安佐あさ動物園どうぶつえん安佐あさ町あさひがおか

毛木けぎ村の東南に位置し、野登呂のとろ(四五三メートル)の後ろにあるところから村名を得たという(芸藩通志)。東北部を太田おおた川が蛇行し、対岸は高宮たかみや勝木かつぎ村。西北部に権現ごんげん山、東南部に野登呂山があって、その西側を日南ひな川が北流し太田川へ注ぐ。

永享八年(一四三六)一〇月一五日の武田信繁安堵状写(福王寺文書)には「安北郡可部庄内福王寺領後山綾谷名」とみえるが、当村を安北あんぽく郡あるいは可部庄内に含まれていたとするには無理があり、この後山名と近世の後山村の連続性は疑わしい。

後山村
うしろやまむら

[現在地名]東粟倉村後山

現東粟倉村北東部に位置し、北に駒の尾こまのお山、北東に後山、南東日名倉ひなくら(雛倉山・日名蔵山)などの高山が連なる。日名倉山の北の志引しびき峠を越えると播磨国宍粟しそう西山にしやま(現兵庫県宍粟郡千種町)に至る。後山は修験の霊場として知られ、同山より発する行者ぎようじや(後山川)が村内を流れる。寛永二年(一六二五)の上坂主馬知行目録(黄薇古簡集)に後山村のうち一〇〇石とある。正保郷帳では田一七九石・畑一四七石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高五四石余・開高一石余、村位は下。津山藩森氏断絶後は幕府領、元文四年(一七三九)大阪定番丹羽領、寛保二年(一七四二)幕府領、延享二年(一七四五)因幡鳥取藩預、同四年常陸土浦藩領、寛政二年(一七九〇)幕府領(美作国郷村支配記)

後山村
うしろやまむら

[現在地名]桜江町後山

川戸かわど村の西、江川下流域左岸に位置し、江川には急崖をもって臨む丘陵地に立地。江戸初期に市山いちやま村から分村し、正保四年(一六四七)の古田領郷帳に村名がみえる。高一七二石余、免六ツ五朱。宝永石見国郷村帳には市山村枝郷とみえ、高二〇一石余。延享三年(一七四六)の小物成帳(桜江町誌)によれば渡船役銀一〇匁・川役五匁。

後山村
うしろやまむら

[現在地名]松阪市後山町

堀坂ほつさか山の西方、北流して中村なかむら川に合流する飯福田いぶた川の水源付近にあり、南は柚原ゆのはら村に対する。「内宮年中神役下行記」天文一〇年(一五四一)一〇月条に「一背山上分三斗五升、岩室権大夫升ヲ持参シ納之、飯ニ白酒ヲ呑ス、件上分元ハ八斗也、前田殿依分取歟」とみえるが、この背山は近世の後山をさすと考えられる。近世は津藩領。嘉永二年(一八四九)の後山村本田畑当荒起帰り改帳(徳川林政史蔵)には、字樋之口・壱反田・山ばた・風呂屋の上・ひよの谷・東谷奥にわたって、一反余の再開発田畑が記帳されている。

後山村
うしろやまむら

[現在地名]三次市後山町

三次郡東端の村で、北西は穴笠あながさ村、東は恵蘇えそ水越みずこし(現庄原市)に接する。全村ほぼ山地で山あいの谷々にわずかの耕地民家が点在し、溜池灌漑に依存する。「芸藩通志」は「山林の所在十の八九あり、陰地なれば雨を忌む」と記す。江戸時代は広島藩領であるが、寛永九年(一六三二)より享保五年(一七二〇)までは三次藩領。

後山村
うしろやまむら

[現在地名]仲南町十郷そごう

帆山ほのやま村の西に位置する。寛永国絵図ではしちヶ村に属する。寛文四年(一六六四)の丸亀藩高辻帳では高三三石余。天保郷帳では高一一九石余。「西讃府志」によると田畝九町一反余(うち畑三反余・屋舗三反余)租税は米二四石余・大麦一石余・小麦七斗余・大豆四斗余、家数一九・人数八六、牛一一・馬一、溜池は道谷みちたに池など四。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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