広田村(読み)ひろたむら

日本歴史地名大系 「広田村」の解説

広田村
ひろたむら

[現在地名]陸前高田市広田町

気仙けせん郡の南端にあり、北西は小友おとも村。南に海へ突き出した広田半島部分が村域の大部分で、西は広田湾、東は大野おおの湾に面する漁村。伊藤家系譜(伊藤文書)によれば、伊豆国出身と伝える伊藤長門守清長は正中二年(一三二五)陸奥気仙沼けせんぬま城主熊谷氏の家老となり、「気仙郡高田郷白田」二五〇貫を知行したとある。黒崎くろさきの黒崎神社蔵懸仏の背面に明応五年(一四九六)二月一八日の銘があり、「田郷黒崎大明神」と記される。このことから当村は室町期にはひえた郷と称されていたと推定される。天正一六年(一五八八)浜田安房守の反乱の際、気仙沼表での合戦で気仙勢の矢作主計を討取った軍功の賞として、「広田村」三千刈が葛西晴信より菅原上野介に宛行われた(同年六月二日「葛西晴信知行宛行状」津谷菅原文書)。また同じとき長部おさべの戦いで金野次郎左衛門に討取られた浜田方の広田左衛門は広田城主大和田氏の一族であろう(同年六月二日「葛西晴信知行宛行状」本吉昆野文書)

広田村
ひろたむら

[現在地名]西宮市広田町・中屋町なかやちよう大社町たいしやちよう奥畑おくはた甲陽園本庄町こうようえんほんじようちよう甲陽園日之出町こうようえんひのでちよう甲陽園東山町こうようえんひがしやまちよう新甲陽町しんこうようちよう能登町のとちよう大畑町おおはたちよう丸橋町まるはしちよう北昭和町きたしようわちよう六軒町ろつけんちよう五月さつきおかいち谷町やちよう愛宕山あたごやま高座町たかくらちよう岡田山おかだやま

越水こしみず村の東、うえはら台地南麓にある武庫むこ郡の村。村域中央部を御手洗みたらし川が南東流する。神功皇后が「広田国」(「日本書紀」神功皇后摂政元年二月条)に祀ったという広田神社の鎮座地。「梁塵秘抄」の神社歌のなかに「広田より戸田へ渡る船もがな、浜のみたけへ言付もせむ」とみえ、広田社とその別宮浜の南はまのなん宮があった西宮海浜部との間を船で往来した。昆陽こや(現尼崎市)方面から南西に走る山陽道は、古く当村から越水村へと向かっていたが、近世中期頃より当村で南に折れてなか村から西宮町へ入るようになった。

広田村
ひろたむら

[現在地名]佐世保市広田一―四丁目・広田町・崎岡町さきおかちよう浦川内町うらがわちちよう重尾町しげおちよう

早岐はいき村の南にあり、北部を小森こもり川、その南を金田きんだ川が流れる。東にふたッ岳、南東に白石しらいし岳・とうさき山がある。現広田町の住吉神社近くに三島山みしまやま経塚がある。天正年間(一五七三―九二)攻防があったという広田城跡があり、重尾は平戸松浦氏と大村氏が領境とした地で、江戸時代には番所が置かれた。平戸往還が通る。江戸時代は平戸藩領相神浦筋郡代の管轄下で、正保国絵図に広田村とあり、高一千二五〇石余。またミシマとあるのは三島であろう。慶安二年(一六四九)の肥前国道法帳によれば広田村内に一里山が築かれていた。

広田村
ひろだむら

[現在地名]川里村広田

元荒川と見沼代用水(星川)の間に位置する。北は赤城あかぎ村・北根きたね村、西は埼玉さきたま(現行田市)、南は屈巣くす沼跡の広大な水田地帯。集落は野通やどおり川右岸の埋没台地上に立地している。村の北西端に縄文時代中期から平安時代にかけての集落跡である光安寺こうあんじ遺跡がある。文永二年(一二六五)閏四月一八日の関東下知状(市河文書)に中野為泰の知行地として「武州広田」がみえる。為泰は信濃国中野郷の領主中野忠能と先妻の子で、先妻は忠能と別れて広田の領主広田為村の妻となり、為泰は為村没後にその嫡子として広田を譲与された。

広田村
ひろたむら

面積:四四・〇九平方キロ

松山市南方約二〇キロ、四国山地中の村。伊予郡の南東部を占め、石鎚いしづち連峰の支脈によって村の四周を閉ざされている。伊予灘に流入するひじ川上流の田渡たど川が村の中央を北から南に流れ、これに注ぐ多くの支流に沿ってわずかに耕地と集落が発達している。したがって村の外に出るには高い峠を越さねばならない。北の砥部とべ町とは上尾うえび(四六三メートル)、東の上浮穴かみうけな久万くま町とはサレガ峠(八九三メートル)、西の中山なかやま町とは鍛冶屋かじや(五八〇メートル)境柱さかいはしら峠・大佐礼おおされ(ともに七〇〇メートル級)、続く喜多きた内子うちこ町、南の上浮穴郡小田おだ町とも四〇〇―八〇〇メートル級の山々で接するが、小田町とは田渡川の谷筋道が交通の便を与えている。

広田村
ひろたむら

[現在地名]婦中町広田

神通川中流左岸と井田いだ川中流右岸の間に位置し、すぐ東をうしくび用水が流れ、同用水を挟んで新屋あらや村、西は浜子はまのこ村。かつて杉原すぎはら(現八尾町の大杉・杉田も含む)の荒地の一部であったが、小長谷こながたに(現八尾町)の安右衛門が用水を開削してだんだんと田を広め、その後杉原野の小村一一村を集めて三ヵ村に分村した際に名付けられたという(婦負郡志)。川べりよりはやや高いため灌漑用水が得にくく開発が遅れ、元禄郷帳では高八七石余。享保六年(一七二一)の高八二〇石余(「村付高改帳」島倉家文書)。寛政二年(一七九〇)新田高九八六石余・平均免一ツ四歩五厘余、銀納畑三千五四八歩・代銀三八匁余、銀納林四〇〇歩・代銀二匁八分八厘があり、小物成銀七匁(高物成品々手鏡)

広田村
ひろたむら

[現在地名]亀岡市しの町広田・ひがしつつじヶ丘都台おかみやこだい・東つつじヶ丘曙台あけぼのだい

西の浄法寺じようぼうじ村と東の篠村とに挟まれ、南は山地に続く小村。

天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」によれば高二四一・二石、戸数二四。亀山藩領で、農作は五穀のほか薯蕷やまのいも・大根を作った。

現在集会所のある辺りに明治以前までは安楽あんらく寺があり、もと渡辺氏の城中という。渡辺六郎頼方が筑紫の安楽寺(現福岡県筑紫郡太宰府町の太宰府天満宮)から持ち帰った地蔵尊を安置して同名の寺を建てたといわれ、地蔵尊は今も集会所に安置される。

広田村
ひろだむら

[現在地名]長野市稲里町田牧いなさとまちたまき

東は小島田おしまだ村、西は藤牧ふじまき村、南は戸部とべ村、北は中氷なかひがの村と接する。

伝承によると、応永七年(一四〇〇)村上満信に属し反守護軍として大塔合戦に出陣した広田掃部之助は広田の居帰いかえりに住して広田・藤牧を領したという(長野県町村誌)。その裔広田三河守宗長は長禄二年(一四五八)諏訪社上社頭役を勤仕している(「諏訪御符礼之古書」諏訪大社上社文書)

天文・弘治の頃は武田晴信の所領。伝承によると武田氏は広田に館を築き天文二一年(一五五二)これを安曇あずみ郡千見城主大日方直長に守らせたという。

広田村
ひろたむら

[現在地名]五所川原市広田

川が村内を貫流し、北は広田堰を境に真黒屋敷まぐろやしき村、東は七ッ館ななっだて村に接する。

寛文四年(一六六四)の高辻帳に広田村七九〇・八石とあり、貞享元年(一六八四)の郷村帳も新田として同高である。同四年の検地帳は田方一〇三町二反八畝七歩・畑方一三町一反九畝一七歩、田畑屋敷合せて一一六町四反七畝二四歩、村高一一〇四・一四二石、郷蔵屋敷、漆木四本を記す。

広田村
ひろたむら

[現在地名]野村町あさひ

稲生いのう川と長谷ながたに川合流点にある小村。北は鳥鹿野とじかの村、南は四郎谷しろがたに村に接する。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「広田村 柴山、茅山、小川有」とある。くら村に属した。

太閤検地の石高は三八石四升で、耕地面積の比率は田六四パーセント、畑三六パーセントで、寛文検地では石高は一・七倍に増加し、田三五パーセント、畑六五パーセントとなった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報