巨勢氏(読み)こせうじ

改訂新版 世界大百科事典 「巨勢氏」の意味・わかりやすい解説

巨勢氏 (こせうじ)

許勢とも記す。奈良盆地南西部を本拠地(《和名抄》に,高市郡巨勢郷がみえる。現,御所市古瀬)とした臣姓の有力古代豪族。その祖,巨勢小柄宿禰は,武内宿禰の子と伝承されており,蘇我氏,波多氏,葛城氏らとともに,武内宿禰の後裔と称していた。巨勢氏の本拠地は,曾我川上流に近い山間で(コセの地名は,こうした地形に基づく),紀伊に至る紀路が走る要衝である。蘇我氏,波多氏,葛城氏の本拠地とも近く,いずれの地も,曾我川の灌漑範囲であること,紀路沿いであることが,武内宿禰を共通の祖と仰ぐ同族意識をはぐくんだのであろう。《古事記》の孝元天皇段によれば,巨勢小柄宿禰を祖とする氏族には,巨勢臣,雀部臣,軽部臣がいる。巨勢氏は,6世紀以降,朝鮮問題に関与することで勢力を得てきた新興氏族である。《日本書紀》によれば,継体朝に巨勢男人,欽明朝に許勢稲持,崇峻朝に許勢猿,推古朝に許勢大麻呂などの名がみえている。とりわけ,7世紀中葉ごろ~8世紀前半に,有力な人物が輩出した。孝徳朝の左大臣徳太(徳陀古),天智朝の御史大夫比等,708年(和銅1)に太宰大弐に任じられた多益須,715年(霊亀1)中納言に任じられた麻呂,718年(養老2)に中納言に任じられた邑治(おおじ)らがいる。御所市古瀬およびその周辺には,権現堂古墳(径約15mの円墳,6世紀前半の築造),新宮山古墳(径約25m,6世紀中葉~後半の築造),水泥古墳(径約14mの円墳,7世紀初頭の築造)があり,いずれも巨勢氏の奥津城と考えられる。また,御所市古瀬には,大きな心礎の残存する寺院跡がある。その心礎は,飛鳥檜隈寺のものと類似し,7世紀後半の古瓦が散布している。この寺院跡は,686年(朱鳥1)檜隈寺,軽寺,大窪寺とともに,寺封を与えられた巨勢寺とみてまちがいない。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「巨勢氏」の意味・わかりやすい解説

巨勢氏
こせうじ

許勢、居勢にもつくる。大和(やまと)国高市(たけち)郡巨勢郷(奈良県高市(たかいち)郡高取(たかとり)町から御所(ごせ)市にかけての地)を本拠とした古代豪族。『古事記』(孝元(こうげん)記)に建内宿禰(たけしうちのすくね)の子許勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)は許勢臣(おみ)、雀部(ささきべ)臣、軽部(かるべ)臣の祖とある。巨勢氏の氏人は『日本書紀』では継体(けいたい)朝の大臣(おおおみ)巨勢男人(おひと)以降に集中的に現れ、6世紀に入って台頭した新興氏族と想像される。男人の大臣就任は、その女(むすめ)の紗手媛(さてひめ)、香香有媛(かかりひめ)が安閑(あんかん)天皇妃(ひ)とされたこととあわせて疑いがもたれるが、欽明(きんめい)朝以降の氏人の活動を点検すると、朝鮮問題に関与し、軍事氏族として大きな勢力を有したらしい。蘇我(そが)氏政権下では大臣を補佐する大夫(まえつきみ)の要職にあり、649年(大化5)には徳陀(とこだ)が左大臣に任ぜられた。壬申(じんしん)の乱(672)では近江(おうみ)朝側に属したが、684年(天武天皇13)朝臣(あそん)の賜姓にあずかり、その後も平安朝初期まで一族から黒麻呂(くろまろ)、麻呂(まろ)、邑治(おうじ)、堺(さかい)麻呂、奈氐(なて)麻呂、野足(のたり)ら公卿(くぎょう)を輩出した。

[加藤謙吉]

『直木孝次郎著『日本古代の氏族と天皇』(1964・塙書房)』

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百科事典マイペディア 「巨勢氏」の意味・わかりやすい解説

巨勢氏【こせうじ】

古代の有力豪族。許勢,居勢とも記す。奈良盆地南西部を本拠地とした。武内宿禰(たけうちのすくね)の子巨勢小柄(おから)を祖とすると伝えられ,平群(へぐり),葛城(かつらぎ),蘇我(そが)氏らと同族で,ともに飛鳥時代には大臣(おおおみ)家として栄えた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「巨勢氏」の意味・わかりやすい解説

巨勢氏
こせうじ

許勢,居勢とも書く。皇別氏族。武内宿禰の子巨勢小柄の流れ。大和葛城上郡を本拠とし,飛鳥時代,大臣家として栄え,天武 12 (683) 年朝臣を賜わったが,平安時代以後次第に衰えた。

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