川上庄(読み)かわかみのしよう

日本歴史地名大系 「川上庄」の解説

川上庄
かわかみのしよう

日高川の中流域に比定される京都神護寺領の荘園。立荘の経緯については不詳。治承二年(一一七八)閏六月二四日付の造日前国懸宮役請文案(書陵部所蔵壬生家古文書)に「謹請 川上御庄所課造日前国懸両社殿舎修造請文事」として、「所課七尺東第二間内、日前宮神殿一間二面内付壇礎石」とあり、日前国懸ひのくまくにかかす(現和歌山市)の上記夫役が課せられている。

「神護寺略記」(神護寺文書)に「但紀伊国河上庄者、文治二年鎌倉右大将家、以地頭預所両職永所被寄附也、為増伽藍之花飾宛施土木之新資云々」とみえ、文治二年(一一八六)源頼朝から川上庄の地頭職・預所職が修造料として神護寺に寄進され、この時、同寺領となったことが知られる。同四年七月二四日付後白河法皇院宣(同文書)に「神護寺領八ケ所」の一として「川上庄」の名がみえ、役夫工が免除されている。

川上庄
かわかみのしよう

永久五年(一一一七)の東大寺温室田寄進状(東南院文書)に、

<資料は省略されています>

とあり、川上庄が東大寺領であることがうかがえる。慶観(東大寺僧か)が同庄内の私領を東大寺大湯屋温室料所として寄進したもので、字のうち「瓦坂」「十坪」は現川上町小字瓦阪かわらざかじゆつぼに比定される。次に散在仏餉田料所(東大寺要録)には「合大者 所当四斗三升 河上庄之内字眉間寺前(欠年)とあり、字眉間寺前は現存しないが現多門町辺りと推測される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報