島崎村(読み)しまさきむら

日本歴史地名大系 「島崎村」の解説

島崎村
しまさきむら

[現在地名]熊本市島崎三―七丁目

西の荒尾あらお(四四五メートル)三淵さんえん(二八五メートル)から東の井芹いせり川に向かって広がる地域で、南部に石神いしがみ(一六三メートル)がある。東は牧崎まきざき村・宮内みやうち村、南は横手よこて村に接する。慶長一三年(一六〇八)検地帳では田方二八町余・畠方四二町で、分米六四六石五斗余、家数八五、男五一・女五二、牛一五・馬二のほか、ゆの木八・こねり木八・九年母一・蜜柑一をあげる。寛永一三年(一六三六)には横手又右衛門手永に属した(「大雑記」飽田町誌)。その後池田手永に属し、「国誌」に「紙屋村三軒屋村引地村栗山村荒尾村小山田村琵琶崎村日向崎村千原村等小村アリ」とある。

宝暦一三年(一七六三)の下ケ名寄帳によれば惣畝数六七町五反余、うち本方五〇町四反余・新地一町六反余・諸開一五町四反余で、庄屋のほか、頭百姓四・小百姓五五がいた。

島崎村
しまざきむら

[現在地名]和島村島崎

北野きたの村の西、中央を島崎川とはま街道が通る水陸交通の要衝。建武三年(一三三六)二月七日の色部高長軍忠状案(色部氏文書)に「西古志郡島崎城」とあり、新田氏方の風間・小木・河内・池一族が当地で色部高長・加地景綱らと戦って敗れている。正保国絵図に高一千六九七石余で幕府領。慶安二年(一六四九)に村上藩領。貞享元年(一六八四)の郷村高辻帳では高五一二石五斗余。旧高旧領取調帳では西島崎にししまざき村高六八六石一斗余は村上藩領、東島崎村高八五三石三斗余は出雲崎いずもざき代官所支配となる。蒲原かんばら地方の幕府領の収穫米は新潟からなかくち川・島崎川と継ぐ経路と、新潟から寺泊てらどまり(現寺泊町)西にし川・島崎川の経路があり、いずれも当地あるいは島崎川上流の村田むらた椿の森つばきのもりにいったん陸揚げして出雲崎尼瀬あまぜ(現出雲崎町)へ運ばれて、同地から各地へ廻送された。

島崎村
しまざきむら

[現在地名]各務原市蘇原島崎町そはらしまさきちよう蘇原吉野町そはらよしのちよう蘇原申子町そはらさるこちよう蘇原寺島町そはらてらじまちよう蘇原青雲町そはらせいうんちよう蘇原赤羽根町そはらあかばねちよう

各務原台地北方の緩斜面から平地に続く地域に位置する。各務かかみ郡に属し、北と南は伊吹いぶき村、東は古市場ふるいちば村。村名はさかい川氾濫原の微高地(島)にあったことに由来するという。慶長郷帳では高二四八石余。天正一七年(一五八九)一〇月二八日の野口村野帳(安積文書)に「嶋崎」とみえる。慶長五年(一六〇〇)旗本徳山領となるが、貞享三年(一六八六)旗本徳山分家領となり、幕末に至る。正保郷帳では田高一五七石余・畑高九二石余(岩瀬文庫本正保郷帳では高一九一石余)。元禄郷帳では高一九一石余。鵜沼うぬま宿の助郷を勤める(臼井本元禄郷帳)

島崎村
しまざきむら

[現在地名]牛堀町島須します

北は赤須あかす村、西は牛堀村。中世は島崎郷に属し、島崎城に拠る島崎氏の居所であった。嘉元大田文に「島前六丁七反六十歩」とあり、貞和三年(一三四七)には常陸国衙は島崎の正税を鹿島護摩堂に寄進して天下の安穏を祈らせている(「常陸国庁宣」護国院文書)。また応安年間(一三六八―七五)の海夫注文(香取文書)には「しまさきの津島崎知行分」とある。

島崎村
しまさきむら

[現在地名]高岡市島崎

答野島とうのしま村の東に位置し、北は細池ほそいけ村。元和五年(一六一九)の家高新帳では国吉才二郎組に属して村名がみえ、役家数一。正保郷帳では佐加野さがの村の注記として村名がみえる。寛文一〇年(一六七〇)の村御印による草高四二石・免六ツ、小物成は山役一九匁(三箇国高物成帳)。延宝四年(一六七六)の役家数四、肝煎は細池村久右衛門が兼帯(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android