山谷村(読み)やまだにむら

日本歴史地名大系 「山谷村」の解説

山谷村
やまだにむら

[現在地名]西有田町大字山谷

現西有田町の北部に位置し、中央を有田川が北流する。これから西へ下山谷しもやまだに・上山谷・切口きりぐちたけの字名が分布し、国見くにみ(七七六メートル)くり(六五〇メートル)分水嶺で現長崎県北松浦郡世知原せちばる町と隣接。東はまきとしだいに高さを増し、牧ノ山(五五三メートル)で現伊万里市と接する。

慶長絵図には、この地域のうち上山田村と二ノ瀬村は大里おおざと(現伊万里市)の内と記され、下山田村大木おおぎの内とある。山谷村の山田やまだ神社は、唐船とうせん城城主松浦丹後守源盛が永禄四年(一五六一)に創建。祭神は熊野神で山田野やまだの三所大権現と称した。したがってこの頃は山田野村と呼称されており、竜泉寺文書(江戸中期)にも山田野村と記されている。

山谷村
やまやむら

[現在地名]平田町山谷

山谷新田村の東にあり、東は北俣きたまた村。相沢あいさわ川右岸にある山間の村。西山にしやまには縄文時代の集落跡、西沢にしさわには鎌倉時代から室町時代にかけての新溜しんため窯跡、さわには鎌倉時代から室町時代にかけての八幡森はちまんもり墳墓と河内かわち城跡がある。「山谷村誌碑」に平安末期斎藤将監が従者六騎とともに当地に来て、谷隅の水を引き田畑を開いたとあり、地名はこのことに由来し、将監は文治四年(一一八八)に没したとある。山上に山谷館がある。「筆濃余理」によれば当地は要害の地で鍛冶屋敷跡もあり、館主は鷹尾たかお山別当磐井五郎、秋田備中守良輝であった。上杉氏に攻められ天正一九年(一五九一)一族は滅亡した。また文化一一年(一八一四)には当村の徳右衛門が館跡近くの八幡森から鎗の穂先・古銭・石碑二基を掘りあてたとあり、石碑には梵字が彫られ、南朝年号の元弘二年(一三三二)と応永八年(一四〇一)の年号があり、近くから高さ二尺二寸余の大甕二つが合さった中から太刀一振が出土したとある。

山谷村
やまやむら

[現在地名]鶴岡市上山谷かみやまや

金峯きんぼう山の南東山麓にあり、南に並立する母狩ほかり山から流れる山谷川が南を流れる。村名は山間谷間にあることから出たらしく、山屋とも記される。南東は金谷かなや村、北は滝沢たきざわ村。中世には金峯修験の滝沢のみねの薬師から岳・摩耶まや(現西田川郡温海町)に通じる逆峰の道筋にあたっていたといわれ(「金峯万年草」金峯神社文書)、頂上付近に牛道うしみち茶屋跡ちややあとなどの地名が残る。

山谷村
やまやむら

[現在地名]秋田市太平山谷

黒沢くろさわ村から一里東、太平川上流谷あいの集落、南の山地は河辺郡三内さんない(現河辺郡河辺町)との郡境をなす。慶長六年(一六〇一)の秋田実季侍分限(秋田家文書)山屋村・さら見ない村がみえる。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図は山屋村二六四石と山屋村の内猿見内村が記される。

享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」によれば本村家数一七軒、支郷に家数二三軒の皿見内さらみない村、一六軒の土佐とさだい村、一五軒の野田のだ村、七軒の貝野沢かいのさわ村、二軒の屋山ややま村があった。屋山村について「御墨印高外当高九斗九升大平若宮八幡神田御寄進」とある。文化(一八〇四―一八)頃の「六郡郷村誌略」には「高三百七十三石、免六ツ、家居六十九戸、人三百四十五口、馬五十頭」とある。

山谷村
やまやむら

[現在地名]十日町市山谷

小泉こいずみ村の北。集落は信州道沿いにある。伝承によると、治承年間(一一七七―八一)の開発と伝え、東方信濃川寄りの新地原しんちはらに集落があったが、のち現在地に移転したという。移転後の集落は上方の清水端しみずばたと下方の小谷おたにとなっていたが、天和検地の際に一村として山谷を称したという(中魚沼郡誌)正保国絵図に高一二八石余。天和三年郷帳では高一六〇石余。「白川風土記」では家数七三。当村の世襲庄屋酒井家は、戦国期の上杉謙信の客将村上義清に仕えた坂井弾正忠清次を祖とするといわれる。坂井氏は赤沢あかさわ(現中魚沼郡津南町)城代を勤めたという。のち酒井と改姓し、元和四年(一六一八)当村に隠棲、帰農したという(中魚沼郡誌)

山谷村
やまやむら

[現在地名]六日町山谷

塩沢しおざわ町境の金城きんじよう山から北西に坂戸さかど山に延びる尾根の東麓にある。東と南は中川なかがわ村、北は岩崎いわさき村と五十沢いかさわ川対岸の宮村下みやむらしも新田。枝村に芳田よしだ(吉田)小野おの関谷せきやがある。永禄九年(一五六六)の草創伝承がある(南魚沼郡誌)。天和三年郷帳では高一六石八斗余のほかに同所新田高五〇石二斗余が記される。

山谷村
やまやむら

[現在地名]小千谷市山谷

北は坪野つぼの村、西は三島さんとう塚野山つかのやま(現越路町)、南は市野宮いちのみや村、東は千谷ちや村、柏崎へ至る道が通る。正保国絵図に「山屋村」高一七一石余。天和三年郷帳では高三八五石一斗余。

山谷村
やまやむら

[現在地名]鶴岡市湯田川ゆたがわ

田川湯たがわゆ村の北にある。山屋とも記され、東方の山屋村と区別して湯山谷ゆやまや(屋)ともよばれた。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に湯山屋村とみえ高五一石余。寛永元年庄内高辻帳では一〇四石余。正保郷帳では田高一〇〇石余・畑高三石余、柴山・新田があり、水損。

山谷村
やまやむら

[現在地名]出雲崎町山谷

松本まつもと村の南、西の島崎しまざき川対岸は川西かわにし村、南はべつたに村、西は小釜谷こがまや村。正保国絵図には「山ノ谷村」とみえ幕府領。以降の支配の変遷は神条かみじよう村と同じ。

山谷村
やまやむら

[現在地名]村松町山谷

はく山山麓より流れる山谷川のつくった山間小平地に立地。東は蛭野ひるの村、北東は新屋あらや村、南は下戸倉しもとぐら村。上杉氏の家臣中山清兵衛義雄が明応―永正(一四九二―一五二一)の頃に開墾したと伝える(中蒲原郡誌)。北側の水田から中世の舟と鉄滓が出土し、修験の鉱山集落とも考えられている。

山谷村
さんやむら

[現在地名]伊奈村山谷

弥柳いよやなぎ村の東に所在。「寛文朱印留」によれば下総佐倉藩大給松平氏領であったが、享保三年(一七一八)に土浦藩土屋氏領(谷原下郷組)となり廃藩置県に及ぶ。

山谷村
やまやむら

[現在地名]柿崎町山谷

南は阿弥陀瀬あみだせ村、西は柿崎村と接する。正保国絵図に山屋村とあり、高二〇三石余。天和三年郷帳によれば高二二〇石八斗余、うち山高五石八斗余、新田高七〇石。文久二年(一八六二)の組内軒別割賦帳(明治大学刑事博物館蔵)によれば、直江津なおえつ(現上越市)国分寺の勧化金および虚無僧奉加金合せて永二貫六二文五分が二六村九四九軒に割当てられているが、当村は家三五軒で永七六文一分。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報