神野(読み)こうや

日本歴史地名大系 「神野」の解説

神野
こうや

原山はらやまともよばれ、八ヶ岳西山麓一帯の広い原野であった。「諏訪郡諸村旧蹟年代記」に「惣名原山地大堺東は岳山(八ヶ岳)迄南は高場川迄此川中ニ堺塚有、原山地柳川川中堺西ハ宮川ヲ堺下タハ新井村赤田新田三本松迄夫より上原村之九頭井宮より見通し北之境は中道槻木沢東うけの咽と秡沢鬼場川堺」とみえ、おおよそやな川から立場たつば川に及ぶ広範な地域をさしている。天文一九年(一五五〇)頃のものと考えられている原山絵図(西岡氏蔵)にも、ほぼ同様の範囲が描かれている。

古来、諏訪大社上社には、御狩押立みかりおしたて神事(五月二日)御作田みさくだ御狩神事(六月二七日)御射山みさやま御狩神事(七月二七日から)秋尾あきお御狩神事(九月下旬)と四度の神事があり、いずれも原山の地に登って祭事が行われ、その祭場は神聖地として大切にされていた。

神野
かみの

富士山の南西麓、現内野うつの上野かみの一帯に比定される。「吾妻鏡」治承四年(一一八〇)一〇月一四日条に「武田・安田人々、経神野并春田路、到鉢田辺」とみえ、大石おおいし駅を立った甲斐源氏の武田信義らと北条時政父子らは軍を進め、神野を経て鉢田はちだ(現未詳)辺りに至ったところ、平家方の駿河国目代橘遠茂らと出会って合戦し勝利を収めている。建久四年(一一九三)五月二八日、曾我祐成・同時致兄弟が「富士野神野御旅館」で父の仇として工藤祐経を殺害している(吾妻鏡)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報