緑町(読み)みどりまち

日本歴史地名大系 「緑町」の解説

緑町
みどりまち

[現在地名]甲府市若松町わかまつちよう

やなぎ町四丁目から二ノ堀に架かる橋を境に南へ続く町人地で、下府中二三町の一町。南北通で一丁目・二丁目からなり、土居外どいがい町の南端に位置する。東は西一条にしいちじよう町、西は武家地の佐渡さど町、南は一蓮寺地内いちれんじじない町。慶安三年(一六五〇)の府中伝馬人足割帳(県立図書館蔵)川尻かわじり町とみえ、初めこの町名を称したのは、古府中こふちゆうの古柳町(元柳町)とそれに接した古川尻町(元緑町)の名を下府中に移したからだという。宝永二年(一七〇五)に「柳は緑」にちなんで町名を改めたといい、同年の上下府中人数覚(同館蔵)には緑町と記される。享和三年(一八〇三)の小間数改帳(同館蔵)によれば東側一六六間・西側一六六間半。当町は町場化が進む一蓮寺地内町・光沢寺地内こうたくじじない町や農村部を南に控えた商業街として、元禄五年(一六九二)の上下町中屋敷値段の書上(「御用留」坂田家文書)では、中心街の八日ようか町・柳町に次ぐ高価格を示していた。

緑町
みどりちよう

面積:二七・八三平方キロ

南淡路のほぼ中央部、三原郡北東端にあり、洲本平野と三原平野の分水界をなす。地形は北東流する初尾はつお川流域の平地と中央部の山間地、西流する長田ながた川・倭文しとおり川流域の平地に大別される。東は洲本市、西と南は三原町、北は津名つな五色ごしき町と接する。古代・中世には東部は津名郡に属していたが、正保(一六四四―四八)以前に全域が三原郡に属した。慶長二〇年(一六一五)より阿波徳島藩領。近世後期には庄田しようだ村など五ヵ村が委文組、山添やまぞえ村が金屋組、中筋なかすじ村など三ヵ村が中筋組に属した(反別戸数取調書)。明治二二年(一八八九)の町村制施行により三原郡広田ひろた村・倭文村が成立。

緑町
みどりちよう

大正一一年(一九二二)四月に成立した室蘭市の町名。絵鞆えとも半島の北東部に位置する。町名の由来は緑樹に富んでいたことによる。もとは室蘭区大字札幌通さつぽろどおりの一部で、「トツカリサワ」、「トツカリモイ」(トキカラモイ)、山ノ上、ヲシクネの字名があり、大正一一年四月の大字廃止および町名番地改称により室蘭区緑町・みなと町・いずみ町・おお町・公園こうえん町・茶津ちやつ町・新富しんとみ町・母恋北ぼこいきた町・母恋南町・御前水ごぜんすい町・御崎みさき町が成立(「大字廃止及町名番地改称の件」昭和一六年室蘭市史)。同年八月の市制施行により室蘭市緑町となった。

緑町
みどりまち

昭和三年(一九二八)一月に成立した現在の苫小牧市の町名。苫小牧市の中央部の北に位置する。町名の由来は、同年の町名設定時に丘陵下一帯の地域に緑が多かったことによる。かつてはオテーネとよばれた湿地帯で、明治末期に乾燥地を選んで農業を行う者、小屋を建てて日雇に出る者がおり、さらに排水事業も行われて集落を形成した(苫小牧市史)。昭和三年に苫小牧町大字緑町が誕生、町域は旧支笏湖しこつこ(現在のJR苫小牧駅東側のアンダーパスから、北東に延びて支笏湖通に接続する斜めの通り)の北方一帯であった(「町名設定地番改正調書」苫小牧市立中央図書館蔵)

緑町
みどりちよう

[現在地名]小樽市緑一―五丁目・富岡とみおか一丁目・最上もがみ二丁目

大正四年(一九一五)の小樽区の町名改正に伴い稲穂いなほ町・色内いろない町より分立、緑町が成立。富岡町の南西にある。町内に塩谷しおや伍助沢ごすけざわに通じる農道(明治三八年開削、現商大通)、小樽市街と遊廓(南廓)を結ぶ緑町第一大みどりちようだいいちおお(同三九年開通)、交通道路の第二大通(同四三年完成)があり、また私立小樽商業学校(明治三五年創立、現北照高校)・小樽高等商業学校・小樽商業学校(大正二年創立、現小樽商業高校)がある(緑・最上両町史)

緑町
みどりちよう

[現在地名]根室市緑町・梅ヶ枝町うめがえちよう花咲町はなさきちよう松ヶ枝町まつがえちよう朝日町あさひちよう

明治九年(一八七六)から同三三年までの根室郡の町。明治九年七月梅ヶ枝町の南に接する東西道沿いに緑町一―五丁目が新設された(「事業報告」第一編など)。同一三年二部消防番屋、同一五年根室町会所が置かれた。同一七年根室緑町一―五丁目と改称、同一九年同六丁目を新設(市町村改称字名並ニ旧字名調)。同年根室郡役所、同二〇年鮭営業人組合事務所、同二一年私立根室女子小学校、同二二年英語講習会場などがつくられた。

緑町
みどりちよう

[現在地名]弘前市緑町

城の東側に位置し、北はかや町、南は北瓦きたかわらケ町、東は植田うえだ町・代官だいかん町、西は南柳みなみやなぎ町に接する。

「津軽史」によれば、宝永(一七〇四―一一)の三の郭住宅移転に際し、宝永四年頃に成立したという。明和元年(一七六四)の藩律には、町内は士街として、武家屋敷が二六戸。寛政改革の藩士土着令により町内の藩士が在方へ移住したため、寛政五年(一七九三)御家中潰町となった(平山日記)

緑町
みどりまち

昭和一三年(一九三八)大字最寄もよろ村の一部を割いて設置された。網走川北岸市街地の西にあり、北は現向陽ヶ丘こうようがおかに続く山。網走川に沿った東西の狭い地域。昭和初年の網走川岸埋立、網走新橋架橋などにより森林であった当地は徐々に宅地化した。

緑町
みどりまち

[現在地名]旭川市緑町

昭和四年(一九二九)に新設された町。明治三五年(一九〇二)三月までは鷹栖たかす村のうちで、同年四月旭川町に編入された旧鷹栖村字近文あざちかぶみに相当する。昭和四年四月の字名変更により緑町一二―二五丁目が置かれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報