山浦村(読み)やまうらむら

日本歴史地名大系 「山浦村」の解説

山浦村
やまうらむら

[現在地名]山香町山浦

日指ひさし村の北、大村おおむれ山西麓の駅館やつかん川支流山蔵やまぞう川上流に位置し、西は豊前国宇佐郡山蔵村・内川野うちがわの(現安心院町)。村ははる定野尾じようのお小谷おたに芋恵良いもえら榎原えのきばる浦篠うらしのたに本篠もとしの川床かわとこ石河野いしごうの長田ながた出河内でがわち那留なるの一三の小村から構成され、中村として上村下村に分れていたが(「人畜并田畑御改帳」関家文書)、明確な区分はわかっていない。なお石河野はかつては久木野尾くぎのお村の内であったが、寛永一二年(一六三五)当村に含まれた(図跡考)

〔中世〕

永正四年(一五〇七)の志手泰久田畠坪付并米定銭夫銭注文案(志手文書)や永正年間の山香郷一揆拘分土貢納所銭注文案(志手トラエ文書)によれば、東西一揆衆給分のうち西方分が本志野もとしの(本篠)浦志野うらしの(浦篠)・那留・河床(川床)山井口やまいぐち・原・芋恵良(芋浦)に、どちらとも記されない給分が定尾じようのお(定野尾)にあった。

山浦村
やまうらむら

[現在地名]安岐町山浦

安岐川に朝来野あさくの川が合流する付近に位置する。山峡を東流する安岐川の両岸と右岸南方の台地上に集落が点在する。東は掛樋かけひ村、北は杉山すぎやま村、南は岩屋いわや(現杵築市)。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高五〇五石余、家数四一、うち百姓一九、庭屋・へ屋・牛屋二〇、人数九九、うち百姓一九・名子一二、牛一三・馬一。正保郷帳では安岐郷に属し、田方二九一石余・畑方五九石余で、柴山有・竹山有・新田有と注記される。天和二年(一六八二)杵築藩主松平英親の弟重長の分知領となり、山浦村を含む八ヵ村は両子組に属した。大庄屋は当村の河野氏で、杵築きつき城下に住む浅井氏が分知奉行であった。

山浦村
やまうらむら

[現在地名]玖珠町山浦

小田おた村の南西方、日田郡境にあり、玖珠川支流の山浦川流域に散在する六集落からなり、玖珠川と合流する辺りに二段からなる慈恩じおん滝がある。村の東方は万年はね山。正保郷帳に村名がみえ、田高一三八石余・畑高三〇一石余で、茅山有と記す。延享三年(一七四六)の村明細帳(渡辺家文書)によれば高四四八石余で、文禄二年(一五九三)および元和五年(一六一九)の検地があった。竈数一一五のうち寺一・庄屋一、百姓九八・水呑一五、男三一九・女二三六、牛二三・馬一二。

山浦村
やまうらむら

[現在地名]赤村赤

下赤しもあか村の北に位置し、全村が山で、民家は諸山の間に散在する。南西をいま川が流れるが、石坂いつさか峠などでは崖が川に迫っているため、交通の難所であった。元和八年人畜改帳に村名はみえないが、寛永四年(一六二七)細川忠利が「田河郡山浦・小内田村」のうちで五〇〇石を長岡左膳(三淵之直)に宛行っており(「細川忠利判物」三淵文書)、この頃までに下赤村から分村していたと考えられる。郷村高帳では高四六九石余、うち新田高一三石余。嘉永五年(一八五二)には高四五五石、家数六四・人数二三一、馬四・牛四四、神社一・寺一、池一がある(「村々手鑑」糸田町史)

山浦村
やまうらむら

[現在地名]鳥栖市山浦町やまうらまち山都町やまとまち

九千部くせんぶ山の山脚末端、高・中位段丘に立地。佐賀藩領の東境に位置し、村の東辺を安良やすろ川が流れ、これが対馬藩田代領との境界線。村内諸所の小谷に集落が散在し、大町おおまち新町しんまち中原なかばる牛石うしいし市坪いちのつぼ古野ふるの乗目のるめなどがある。竜造寺田数帳(竜造寺家文書)に「山浦」とみえ、文禄四年(一五九五)の豊臣秀吉朱印状写(鍋島家文書)に「山うら村」とみえる。市坪・つぼは条里制の遺称地で、当地域が古くから開発されていたことがわかる。

山浦村
やまうらむら

[現在地名]小諸市山浦

御牧原みまきがはら東側の断崖下、千曲川の狭い段丘上に、南から宮沢みやざわ大杭おおくい久保くぼうえたいら西浦にしうらの集落が点在する。千曲川の対岸は小諸こもろ城下・耳取みみとり村で、北は大久保おおくぼ村、南は桑山くわやま(現北佐久郡浅科村桑山)などに接する。断崖上は古代の官牧望月もちづき牧の境域で、山浦村域は表面に出ない地域であった。村名もここに由来するといわれる。

承応年中(一六五二―五五)大久保村を分離したと伝えるが(長野県町村誌)、元禄一六年(一七〇三)の牧野康重新知郷村引渡証文に「高弐百三十七石 山浦村 家六十九 内百十石七斗五升一合 大久保村 家四十九」とあるように、二村はほとんど一体的な地域である。

千曲川の狭い谷にあるため、耕地の拡張は主として断崖上の御牧原に求めねばならず、慶安年中(一六四八―五二)には五郎兵衛新田ごろべえしんでん(現北佐久郡浅科村五郎兵衛新田)の開拓者市川五郎兵衛が開拓を希望し、その後承応・万治・寛文・文化の頃にも開拓希望者があった。

山浦村
やまうらむら

[現在地名]西会津町奥川おくがわ高陽根かやね

しお村の北西、奥川支流山田やまだ(山田川)の流域にあり、耶麻郡吉田組に属した。北西は鳥居とりい峠を境に出戸いでと村。本村の下流南方山田沢に出戸川(沢尻川)が注ぐ辺りに端村二俣ふたまた(二岐)がある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に山浦とみえ、高二七九石余。寛文五年(一六六五)の「吉田組風土記」では高一七一石余、免四ツ三分二毛、反別は田方一一町六反余・畑方四町四反余、本村は家数一四(竈数一八)、男四八・女五一、馬五(うち五調三)、二俣は家数一(竈数一)、男六・女四、馬一。

山浦村
やまうらむら

[現在地名]鹿島市大字山浦字山浦・川内かわち南川みなみがわ白鳥尾しらとりお

石木津いしきづ川上流の山浦川が北流する流域に発達した集落。慶長絵図に「山浦河内」とある。

この地は、江戸時代佐賀藩の着座の家柄であった深江氏が領有していた。嘉永六年(一八五三)写の大小配分石高帳によると、深江氏(当時は六左衛門)は物成三〇〇石のうち山浦村に地米二四〇石、本城ほんじよう村に二〇石の計二六〇石を藤津郡能古見のごみ郷の中に領有している。

山浦村
やまうらむら

[現在地名]直入町下田北しもたぎた 山浦

なか村の北、せり川支流の小津留おづる川上流域に位置。田北氏の祖親泰が嘉禎二年(一二三六)父大友親秀から所領を譲与され、翌三年安堵の将軍家下文に「山浦」がみえる(「大友田北氏系図」田北赳夫本)。江戸時代には幕府領直入郡一二ヵ村の一で、領主の変遷は井手野いでの村と同じ。元禄郷帳に村名がみえ、高一〇五石余。

山浦村
やまうらむら

[現在地名]湯布院町川西かわにし 奥江おくえ

野稲のいね岳の南東麓、山下やました池・小田おだの池の東側に位置する。小倉藩慶長人畜改帳に村名がみえ、家数一一・人数五〇(うち肝煎一、本百姓七・名子二)、牛二・馬二〇。小倉藩元和人畜改帳では高一三五石余、家数二〇・人数五三(うち本百姓・小百姓八、名子八)、牛八・馬二。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報